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怒りは真のエネルギーでは無い
神の子としての私たちの本性から、来るものではないから。
怒りや葛藤、落胆、罪悪感や不安といった感情全てが、自然なものではなく、自我から生じているものである。
本来の神聖さからの愛情を邪魔するなにかを私たちがそこに置いたから。
耀く光の前にモノを置き、それで影になっているようなこと。
ではイエスは私たちと何が違うのだろうか?
とんでもなく神聖なのだろうか?
私たちとは人種が違うくらいのレベルだろうか?
イエスはいち早く、自我を手放し神の子である事を自認できた人である。
しかも、時間を超越しているので、奇跡講座の書籍に限らずいつでも私の側にいてくれるのだ。
私の仕事の一つに整骨院での施術がある。
身体の痛みや怪我、バランスのことなど悩みを抱えて、それの解消目的で来訪される。
柔道整復師になる前にも、いわゆる整体師としてやっていた時から、意識していたことがある。
それは、自分の思いを手放して、その患者さんにオープンな状態で臨み接して自分の身体の反応を妨げないことだ。
私の両手も含めて全身がその時に動きたいようにしてあげること、喋りたいことをためらわずに口にすること。
そうして患者さんとの時間が全部、その状態でやり切れるととてもスムーズに進んでいく。
その感覚が精霊、イエスに場を譲り、自我を退かせることなんだろうなと思っている。
この、オープンで自我を脇に置いて、任せるのは、20代で整体を仕事にしていきたいと思った頃から出来ていた。
誰かに教えてもらったので無く、自動的にそうなっていた。
大阪で整体スクールで基本的な手技を習い、野口整体に触れ始めたことも影響しているだろう。
また祖母が神道家でお弟子さんに説教しているのを目の当たりにしたのもある。
霊的なメッセージを受け取ることができて、それを教え諭すことも可能なんだと認識出来た。
真のエネルギーとは
神からの愛であり、それが私を通して広がっていくことである。
太陽の日差しが、雲や建物で覆われないように、自我を脇に置くこと。
それだけが、私に出来ること。
太陽はおよそ半日は見えなくなるのですが、神の愛は時間制限はありません。
イエス、精霊は時間、空間も超越しているので、私が望めばすぐ傍にいてくれます。
いえ、いつも傍にいてくれるがそれを無視したり拒絶しているのは、自分の自我です。
相対する人があれば、繋がりがわかりやすいですが自分一人の時間はどうすれば良いのでしょうか?
この身体も自我の作った幻想なので、実在させるようなことを強調しないようにする。
といっても、セルフネグレクト、自分の身体を痛めつけるようなことをするのもより実在感を強めるでしょう。