世界はすでに終わっている
《神を裏切り、追放されたという罪悪感にたえきれずに自我がこの世をつくった》という大前提があります。
ところが、真実は神の国でやすらかにいるのです。それは神の子ひとりの心です。
心は物質的にも場所も特定できない、人には考えられないところにあります。
その心が自我という幻想を派生させ、自我が宇宙を形つくりました。
それは、神の国でやすらかにいる心の中で夢を見ているのです。
この宇宙は夢、つまり実在しないのです。
前回の記事でかきましたが、この世界は幻です。
そして、その夢からすでに覚めています。
わたしたち神の子は、すでに神の国でやすらかに過ごしているのです。
つまり幻は、幻で終わっているのに、まだその幻にいると思いこんでいるのです。
夜ねるときには、たいていは翌朝の何時におきようと思っています。
それは《夜の眠りから覚めるのが確定している》と安心しているから、眠っていられるのです。
豪雨や地震など、なにが起こるからわからない状況なら安心して眠っていられなくなります。
心配すぎて眠らないで、徹夜したほうが確実と思ったりします。
すると、こんな悪循環にハマってしまいます。
奇跡講座を学びだして思うのは、日常の具体的なことも「これで確実に完成した」というところまでやり切るのが大事ということ。
全部の仕事やことがらを、やりきれなくとも《これについてはやりきった》という実感できるのは、たいせつではないかと思います。
私の整骨院での仕事もそうだと思っています。
患者さんが来院され、症状を聞き取って施術をおこなう。
目安時間になって「さぁ、起きて座りましょう」と、施術のおわりを告げます。
そして来院時のいたみや要望がどれほど、満足されたか確認します。
「さぁ、起きて座りましょう」
と声掛けする直前には《施術はおわり、満足されている》と確信を持っているのです。
聞いているのは、答え合わせをあえてしているような感じ。
筆記テストで《満点を確信して提出する》ような感覚です。
実際に満点は確信を持って回答したときに、得られるからです。
確信がない満点は、単なる運がよかっただけです。
奇跡講座では『すでに世界は終わっている 』と何度かくりかえし說明されています。
じつは昨日までは私も半信半疑でした。
しかし、今日自分の仕事を振り返ってみたら、おわりを確信しているなと気づいたのです。
確かに世界は終わっている
この確信がないうちは、いくら奇跡講座を学んでいると思っていても真にめざめることはないでしょう。
すると、自我はこう考えて提案してきます。
『すでに終わっているなら、なにも苦労して勉強しなくていいじゃない。楽しく遊んでくらそうよ」
と問いかけます。 なかなか魅力的な意見ですね。
それは休日に目が開いているのに、寝ているふうを装っていつまでもベッドから立ち上がらないほどに魅力的です。
いつまでも、この幻想世界で暮らしたいならそうしてもいいのです。
しかしそれは苦痛の時間を引き伸ばしているだけです。
この世は苦痛にみちています。
「いや、それはこまる。いつまでもこの苦しい世界ですみたくない」と自我を手放す決意をするかどうか? これだけがイエス・精霊の聞きたいこと。
イエスが差し伸べた手。それに握手するかどうか?
私もあなたに手を差し伸べています。