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2021/12/16

2021/12/16(2021年もあと16日)
ここが交差のポイントであったか、、、。
今日は昨日の濃ゆい一日を振り返るnote。

早朝、家でオンラインの講座に参加したのち、友人と待ち合わせしていた日比谷へ。
日比谷から歩いて銀座に移動。
お茶して、ビュッフェランチ。

お茶の時、ともすれば、「(、、、カチン!)」となって、イライラをブン撒きそうになる出来事も、友人と笑いながら分析しながら話していたら、あら不思議。
気づきが深い出来事となるのだから、本当に面白い。
誰と話をするのか、ということの大切さを感じる。
「いやー、こりゃ、コントだな」と思えるくらいに変換されるのだから。

ビュッフェランチの美味しいものでいっぱいになったお腹をならす意味も含めて、ひたすら東京の街を歩く。
街から街へ、歩きながら日々の靄りを晴らすように話す。
何故、その出来事に引っかかったのか、ただの愚痴ではなく自分の感じたことを微細に見つめて言葉にすることで晴れてくることがあるのだ。


最後に再びお茶をして友人と別れた後、Twitterで見て気になっていた展示「MOVIN' - MINORU FUJIMOTO Solo Exhibition」を見に東京タワーへ。

展示を観る(特に体感が伴うもの)となると、いつも時間がかかってしまう。
今、私はこの作品を通して何を感じたのか、ということを反芻したり、言葉にしたり、しているから何だろうけれど。

今回の展示、初めは少し遠くから見ていた。
もっと近くで見ていいと教えてもらって、おずおずと近寄ってみた。
ちょうど同じ時間帯に見ていた車椅子の男性が彼自身の動きと共に何か一つのアート作品のようだった。

他の人の動きや鑑賞や周りが見えてしまうと、なかなかふと思いついたことを選択するのに迷ってしまい、感じたことを言葉にしながらウロウロしたらして。


私の中で怖さを感じるとするなら、大きさではなく、私と言う存在が認知されているかどうか、なんだな、と。

イメージで補完される幅は、自分の中にある世界の幅と同等なんだな、と。
自分の中に幅や深さ、広がりがあればあるほど、あの世界の中に多くのものを見て感じ取るのだろうな。

作品との距離だけでなく、立ち位置も自分と世界との関係性をどう捉えているか、が感情とリンクして、いろんなことを感じるのだろう。

少し近いところ。
渦中の中。
いろんな場所に立って感じてみる。

距離感と立ち位置で(音の聞こえもあり)自分が何処だととてつもないものとして感じるか、探りながら見るのが楽しかった。

自分がどう感じたいか、も選んでいる。
もしかすると、先に自分で感じたいことを選び、その感じたいことを感じるために、どういうイメージを補完するか、世界に色を塗るか、を選んでいるんだ、と思った。

進行方向の正面に立った時や、自分が立った時に動きが止まると、相手から認知されている感じがしてドキッとした。
自分だけが知っている、と思っていたら、実は相手にも知られていたとき、に驚くような。

気がつくと人がいなくなってて、あちゃー、な気持ちになりつつ。
作者さんから、この作品を生み出そうとしたお話が聞けたの、面白かったな。









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