茶道スタートアップ WACHAの誕生秘話⑦
前回の投稿からだいぶ時間が空いてしまいましたが、続きをしたためたいと思います。
偶然にも私がいた会社は、ちょうど100周年を迎えるに当たり、全社のリソースを横断的に活用できることに加え、外部のリソースとも組むことが自由な、かつてないビジネスコンテストを開催する旨が発表されたのです。
創立以来、初めての各最大規模のオープンなビジネスコンテストです。
当然ながら、これはチャンスだと思いましたし、このチャンスをものにできなければ、その先はないと容易に想像がつくような状況でした。
私はそのビジネスコンテストに向けて、外部のうら若き優秀なエンジニアたちと共に、水面下の研究開発に着手しました。とにかく最低限動く試作機を半年間で仕上げて、披露することを目指したのです。
当然ながら、会社員をやりながら試作機を作成するのはとても大変でした。あの手この手で時間を捻出し、少なくとも半年間私は終電で帰る日々を送りました。会社のためになるという大義名分があるとは言え、私が着手していることに理解のある環境に、残念ながら私は当時在籍しておりませんでした。きっと話せば、狂人扱いされたと思います。
そして、とうとう運命の日を迎えたのです。
審査員は7名ほどいたかと思います。半分は会社内の方々で、半分は外部のアクセラレータです。
私は不安と期待で高鳴る鼓動をどうにか抑えながら、運命のプレゼンテーションに挑みました。
その場で、会社が脳波分野について実は日本で当時一番特許を保有していることが明らかになりました。また、その分野ができる人材も、環境も、揃っていることが明らかになりました。私はこれはいけるのではないか?と確信しました。アクセラレータも素晴らしいアイデアで、是非取り組むべきだとその場では言ってくださったのです。ところが。
ひとりだけ、反対を表明したひとがいたのです。
そしてその人が、その場で立場上では、一番偉い人でした。
『私は、これが売れるとは思えない。そして、わが社はハードではなく、これからはソフト事業に注力していきたいから、このアイデアはふさわしくない。』
私はただのハードではなく、ハードとソフトが融合したプラットフォームを発表したにも関わらず、ものづくりの会社から、そもそも、もの自体をつくりたくないと、真っ向から否定されたのです。
当時感じた衝撃を、今でも昨日のように良く覚えています。
きっと、一生忘れることはないでしょう。
賛同してくださっていた他の方々全員が気まずそうに落胆する様子を、私はただただ虚しく、見ているしかありませんでした。
次回に続きます。
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