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『野性の実践』 ゲーリー・スナイダー (東京書籍)

 先日『大拙 禅を語る (Art Days)』という英語の講演記録から引用させて頂いたが、和訳を担当した重松宗育さんが、スナイダーの本を翻訳されていることを思い出し「青山は常に歩く」と題された一章を読み返してみた。

 「青山 (せいざん) 」は大辞泉では「樹木が青々と茂っている山」もしくは「人が死んで骨を埋める土地」と説明されている。正反対の意味を持つ言葉である 。生死一如か、生生か。以下『野性の実践』からの引用である。

山水は我々そのものであり、我々は山水そのものだ。本性を直接見ようとする人にとっては、「聖なる」という観念は妄想であり、邪魔だ。そんな観念のために、目前の存在、あるがままの存在、肝心の「これ」から、我々は目をそらせてしまう。根っこも、幹も、枝も、みんな同様にがさがさしている。ヒエラルキーもなく、平等もない。秘儀的でもなく、開放的でもない。天才もいなければ、のろまもいない。野性もなければ、栽培もない。束縛されもしなければ、自由でもない。自然でもなければ、人工でもない。それぞれが、まったく独自な、束の間の個である。そして、すべての存在は、あらゆる形で関わりあっているが、あらゆる形で相互に関わりあっているからこそ、独自な個なのだ。「これ」「如 (ザスネス/Thusness)」は、自然 (ネイチャー) の性質 (ネイチャー) の本質 (ネイチャー) である。野性のもつ野性性である —— 「青山は常に歩く」

『野性の実践 (1994)』ゲーリー・スナイダー (東京書籍)

  「『これ』『如 (ザスネス/Thusness)』は、自然 (ネイチャー) の性質 (ネイチャー) の本質 (ネイチャー) である」とあるが「自然 (じねん)」ということか。では「じねん」とは何か。さて、息をしているのは「誰か」。