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梅花藻

 「尾崎喜八」という詩人をご存知だろうか。山に取り付く以前から知っていて、また、山に行き始めてからも、著書をよく目にしたものの、読み進めることができなかった方なのだが、先日、大月の「花咲山」を歩き「そういえば『花咲ける孤獨』という詩集があの店にあったな」と思い出し、読むかどうかはわからないが、ひょんな偶然に従い入手した。

 紐解くと不思議とすらすら読める、とはいっても一気に読むという類いの本ではなく時折ページをめくる感じの付き合いになるだろう本。紹介したくなった詩を以下に。山を歩いている時に、植物の名が気になったりはしないが、見入ることは多々ある。私はそれで十分だが、詩の主題はそこではないだろう。知音との邂逅。祝祭の歓声。無上のひと時。

老農  尾崎喜八

友達の若い農夫が水を見にゆくと言うので、
一緒に歩いて山あいの彼の田圃へ行ってみた。
稲が青々と涼しくしげり、
どこかで昼間のくいなが鳴いていた。
友達は水口の板へ手をかけて、
田へ落ちる水の量を調節した。

用水のへりを通ると、一人の年とった百姓が
山ぎわの岸の崩れをつくろっていた。
若い友達は私を紹介して、「此の先生は詩人で、
植物や鳥なんかにも詳しいかたです」とつけ加えた。
老農は「おお それは」と言って挨拶しながら、
流れにゆらいでいる白い花の水草を抜いて示した。
「梅花藻」ですねと私が言うと、目を細めてうなずいた。

数日たって私はその老農に招かれた。
彼の古い大きな家は大勢の若い家族で賑わっていた。
酒が出、馳走がならび、蕎麦が打たれた。
そしてその広い座敷の大きな書棚を見て私は驚いた。
そこには辞典や図鑑や地誌類の列にまじって、
トゥンベルク、シーボルト、シュトラスブルガー、カンドールなど、
植物学の古典の厚い訳本や復刻本がずっしりと並んでいた。

詩集『花咲ける孤獨 (1956年)』より