裸眼
先日「感涙」という題で『老子』第5章の「天地不仁」「聖人不仁」についての私見を追記も含め述べてみた。久しぶりにスナイダー氏の『野性の実践』という本を読んでいたら、ある部分にひっかかり、以前記事にした部分と重複していないか確かめたら、同じところだった。「『聖なる』という観念は妄想に過ぎぬ」という、道元禅師の見解のスナイダー氏の解釈である。
『A Zen Life — D. T. Suzuki』というドキュメンタリーでスナイダー氏は「自力」について以下のように述べている (43:41〜)。 "Desire to work hard to accomplish something stands in your own way. (中略) Zen is to make you get in your way, and make you learn to get out of your own way" 道元禅師の「自己をならうというは 自己をわするるなり」という言葉が思い浮かぶ。
一方「他力」については "Try not to get in your own way. Give up any thought of accomplishing anything. Give it up. Have you given it up yet? (A big laugh) It's wonderful. And it is always in its kind of double mind" とコメントしている。後年の鈴木大拙氏同様(勿論スナイダーは著書を読了済だろう)、自力と他力が不可分であり、不二であることを示唆している。
老子の「天地不仁 聖人不仁」の話に戻る。『野性の実践』で、スナイダー氏は道元禅師の「青山常運歩 (山水経)」の解釈 (以下ご参照) を引用している。「青山は有情でも非情でもない。自分自身もまた有情でも非情でもない。そこが分かれば、青山の歩くことは疑うことができない」。老子の「不仁」の思想と共鳴しているように感じられるのはわたしだけであろうか。
花はひとりでに咲く
手入れを怠ることなかれ