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仄仄

 信じても、信じても、信じきれないものを、疑っても、疑っても、疑ひきれなくなったとき、信も、疑も、二つながら及ばない彼方から、ひとつの心境がめぐまれて、他力の意味がほのぼのした —— 『喜びは限りなく』 —— 藤田友次郎

 上述の文章は、鈴木大拙氏が『大拙つれづれ草』で引用しているものである。藤田氏は、鈴木氏曰く「全く無名」の方だそうで、著書は送られてきたそうである。つい先日「A Zen Life —— D. T. Suzuki」というドキュメンタリーフィルムを視聴した。様々な方が「禅」についての自分の見解を述べている。

 一休禅師の「釈迦といふ いたずらものが世にいでて おほくの人を まよわするかな」という詩が思い浮かぶ。仮に第一義なるものが存在するとしても、言葉にすれば二義的になる。言葉は無数の解釈を生じ続けるのだろうが、大用は常に無言で現前し、仄仄と是非をも含め丸っと全てを育み続けるのだろう。