ツナ缶が欲しいだけだった
ツナ缶が欲しいだけだった。
バイクにまたがったのが運の尽き。
季節は、見ているつもりでもいつも意識の外で移ろう。
聞こえ始めたなと思っていたセミの鳴き声が、木立という木立から湧き上がり、いつの間にか夏の盛りを迎えていた。
それとも、そう思うのは、いつも被っているフルフェイスのヘルメットを今日に限ってジェットにしたせいだろうか。
長袖をやめて半袖の麻のシャツにしたからだろうか。
革の手袋をやめて素手でスロットルを握ったからだろうか。
全身を風が吹き抜けるような開放感に浸っているうちに、スーパーを通り過ぎて、本牧まで湾岸を走っていた。
麻のシャツを天の羽衣のように風に膨らませながら、トラックや乗用車を置き去ってひとっこひとりいない道を突き進む。
磯子から先は湾岸高速の真下を走る。
まるで、木陰の下で渓流を遡るマスの気分だ。
左手に見下ろせるプールセンターは夏休みの子どもでいっぱいだ。
右手に広がる工業地帯の巨大プラントは近未来映画のセットのようだ。
影に沈むアスファルトとコンクリートの塊の間をつんざきながら、心地よくて涙が出てきた。
我ながらヘンタイだ。。。
体をむき出しにすればするほど、外の世界との境が曖昧になっていく。
それは、一つ間違えば大怪我になることでもあるのだけれど、そこは自制心でコントロールする。
安全・安全の一点張りの世の中で、命を守るものは自制心のみというバイクは、現代において稀有な存在といえる。
だから、涙が湧いてくるほどの自由を感じられるのだ。
昨日、インドネシアのスンバワ島で行われる在来種の競馬に乗る騎手たちのドキュメンタリーを見た。
鞍もない裸馬にまたがり、疾走する彼らはみな、10歳そこそこの少年たち。
体が小さくて軽い子どもほど、馬が早く走れるからだ。
少年たちは、農場で働く大人の1ヶ月分の給料を1日で稼ぐ。
親たちは彼らの収入を当てにして暮らしている。
小さくても、幼くても、家族を支える大黒柱なのだ。
だが、もし落馬すれば、生死に関わる。
学校を休みがちなので、読み書きも覚えることが遅い子が多い。
彼らはどんな気持ちで馬にまたがっているのだろう。
家族の生活を一身に背負いながら、文字通り「疾走」する。その最中でも自由を感じる瞬間はあるのだろうか。
そんなことを考えながら、高架の影を出て大きな吊り橋を渡ると、埠頭の向こうに地球色の東京湾が見えてきた。
外国へ向かう巨大タンカーに無数のコンテナが積まれていく。
そこを折り返し地点にして、ようやくスーパーへ。
小一時間かけて買ってきたツナ缶はオムレツにして、昼食にした。