うだつが上がらない奴はみんな俺んとこに来い
俺もうだつが上がらないけが愛はある
何故か僕の周りには生き方が下手な奴らが集まる。そこで嘘をついてでも大きな事言って、注目を浴びたり、称賛をえたりして、自分を大きく見せればいいものを、馬鹿正直に、いや、謙遜するから美味しいところを、声がデカい奴らに美味しいところを持っていかれる。なんだあのビッグマウス野郎。とか、ビービーうるさいなあの女々しい奴。と斜に構えながら全部持っていかれる。そしてそこに残るのは「いい人」という称号だけ。
それでも僕はそんな「生き方が下手な奴ら」が大好きだ。何か問題が起きた時に、その問題を他人のせいにはしない、問題の責任をどこに置くのかを議論して解決が進まないなんてことはない。何が一番大切で、何を優先するべきかを考えて、そして解決への最短を探す。そして、美味しいところは奴らに持っていかれる。まぁいいじゃないか。
誰しもが問題の定義を探したい
そういう問題が起きた時に、自分に責任が向くことを異常に嫌がる人がいる。あいつが悪い、あの事件が悪い、天気が悪い、テレビの番組が悪い、報道の仕方が悪い、あんなことをいう奴が悪い。結局悪いことは自分の外、いい事はワタクシ自分のおかげ。自分に責任がないとなれば後はどうでも良くて、物事がうまく行こうが行かまいがそんなことは知ったことじゃない。
一方で、何かが起きた時にはきっと自分が悪いんだ。自分があんなことを言ってしまったからこんなことに、自分がそう感じたから事態はそう進んでしまった。自分が何もせずにそのままにしておいたから、あんな事になってしまった。何がどうでもきっと自分が悪いんだ。でも、そうやって自分のせいにするのも結局は何事も問題解決には繋がらないのは両方も同じこと。ただ、自分のせいと考える人は、他人に責任を押し付けたりはしない。問題は自分にあるのだから次はもう少しうまくやれるはずだ。あの時あの人はきっとこう考えたに違いない、だから次はもう少し良い言い方をしてみよう。少なからず、問題解決の良い方向を向いて努力をする。その分他人への思いやりや、彼らの考えを理解しようとする。そして気持ちも心も体も疲れ果てて、もういいや。やめておこう。なんてマイナスな感情を抱いてしまうことも多々ある。けれど、こんな不器用な人たちが僕は大好きだ。
結局は誰のせいでもありゃしない
僕の大好きなドラマ「北の国から」の中で黒板五郎さんが面倒見が良くて主人公「純」に託して事故で亡くなっり、残った牧場をその純がバブルの犠牲で破綻してしまった時に「誰も悪くはない。時代がそうさせた。神様がそう決めたんだ。仕方ない」と言っていた。良かれと思ったこと、情を重じてそれでも叶わなかったこと、時代が変わって物事の価値観が真逆にひっくり帰った時、悪意がないところに悪魔がやってくる。でも、それはそうなるべくしてなってしまった。起こったことはもうやり直せない。起こったことはそのまま受け入れるしかない。受け入れて前を向いて進むしかない。そんな意味がふくまれているように思える。
努力は無駄でも否定をしてはいけない
いくら努力しても、成果の上がらない努力をずっと繰り返し、結局何も成し遂げられない努力は何の価値もない。そんな事柄も少なくない。こんなに努力をしたのにミュージシャンになれなかった。あれだけ頑張ったのに売り上げが上がらない。こんなに努力をしたのに会社を潰した。努力をしようがしまいが結果が出なければ何も意味はなくて何の称賛も得られない。それは目的が達成できなかった事への評価であり、努力を否定することではない。努力、努力、努力はしてうんだけどなぁと言いながら言ってるだけど何も行動しない人も多々いるけれど、努力する事で何かを達成するための行動する気持ち、だとか、そこにたどり着くための道を一瞬でも垣間見たかもしれない。できなかったとしても、やってみる事で見えてくる景色がある。登山で山頂からの眺めを味わう事ができなかったとしても、そこまでも険しいルートを味わい、途中から見える平地とは違う景色を見て、登る辛さと途中で飲んだ水の美味しさは味わう事ができる。何も行動しないことに比べると物凄い収穫を得ているわけだ。
笑って笑って笑って笑って
先日、某製薬メーカーの某流行病の飲み薬の開発断念がニュースになった。莫大な経費と努力を積み重ねたものの、効果が上がらないことで開発を断念することになった。この開発費には相当な援助金が国から支給されていた。これを返済しろという話が出たそうで、それって完成しなければ努力する意味がないということなのだろうか?できるかどうかがわからない努力はするなということなのか。可能性があっても確率が悪ければ諦めろということなのか。安全な間違いのない、無難なことだけやって、新しいことにはチャレンジするなということなのか?これからの若者に夢をもて、今時の若者は夢がない。そんな事を言っている年寄りがその夢を潰そうとしている。
先ほど述べたドラマ「北の国から」では、バブルに乗り、お金をかけ、規模を増やし、大規模農業を目指し、莫大な借金で莫大な利益を目指した。当の本人は事故で亡くなり、彼の意思を尊重して、村中の応援を受けてその農地を引き受け、そしてバブルがはじけた。莫大な融資はただの借金となり、土地や資産のあらゆる物の価値が暴落し、そして返すこともできない負債をかけてしまった。時代が変われば価値観も変わる。価値観が変われば行動も変わる。けれど、変えてはいけない物もある。努力と目標と、恩と情。
生きづらい世の中で生きるのが下手な人。その時々で都合の良い言葉を並べてのらりくらりとすり抜ける人。気がつくと生きるのが下手な人の周りには、生きるのが下手な人が集まり、言葉だけが巧みな人の周りには言葉だけの人々が集まる。
きっとどちらも笑って暮らせているんだと思うけど、僕は前者に囲まれて腹の底から笑って暮らす暮らしが大好きです。