見出し画像

感情の執着・その2

感情の執着・その1

感情の執着を手放して、
あーそれだけのことだったんだ

と、怒りを浄化させると
本当に、その出来事が、どうでもよくなってくる。

というよりはむしろ、
記憶から削除される出来事に変換されて
最終的には、完全削除となる。

そして、自然とその出来事に
感謝の気持ちが溢れるか、

あるいは、
そのことに関して無関心となる。

どちらも、「癒された」と言っていいと思う。


思考の忙しい私が、
新たに浮かんだ質問は、

その出来事に関わった人と
再度、ご縁を結びたいか?

ということ。


それは、必ずしも「YES」とは限らない。
(無理って思ったら離れたご縁はそのまま)

違う価値観を持っているのだし、
いい意味で、相手の良いところも悪いところも
全部見えてしまっている。

それを考慮して、
相手を受け入れられるかどうか?

によるんだと思う。


そこで、必要になってくるのが、
「相手」に「自分の意見や思う事」を伝えること。

一方通行では、関係は修繕されないから、
相手も、自分に伝えてくれる事が必要条件になる。

大抵の喧嘩や争い、相手を怒らせるような出来事は、

出来事を、単なる出来事として見ずに
そこに自分の感情を付け加えて
事実を捻じ曲げて見てしまった結果

なんだと思う。

もし、自分の意見や感情を
きちんと相手に伝えていたら、

事実を捻じ曲げてみることは
避けれたかもしれないし、

たとえ捻じ曲げて見たとしても
修復可能な範囲に収まっているはずだろう。


壊れた関係を修繕するのに、
「お互いのコミュニケーション」が必須になる。

相手を伝えるときに、

「言ったところで、こう言い返される」
「言ったところで、聞いてくれない」と、

「過去の捻じ曲げた事実の出来事を再現」して
思うこともあるだろう。

だけど、実際に伝えてみると、

「自分勝手な脳内劇場」を
繰り広げているだけだった。

ということに、気がつくことが多い。


こういった、
「捻じ曲げられた事実」を
上書きしていく作業は、

「出来事を単なる出来事」と見て、
「自分の気持ちや思うこと」を相手に伝えて、

「捻じ曲げられた事実を
自らの経験で書き直していく」ことなんだと思う。

これもまた、
「癒しと気づき」の過程であり、

その積み重ねで、
生きやすくもなっていくんだろうと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?