幸せな記憶
「原風景」という言葉が好きだ。
すべての大人にとって、子どもの頃の「幸せな記憶」というものがその後の人生の支えになっていたり、誰もが心のどこかでその「原風景」を追いかけて人生を送っている、ということがあるのではないかと私は思っている。
ただ、幸せな子ども時代を過ごしたわけではない人もいるだろうから、すべての人に、というのは難しいのかもしれないけれど。でも、本人も気づかないほど他愛もないものが、実は自分を支える幸せな記憶だったりすることがある。
私にとっての「原風景」「幸せな記憶」というのは、二つある。大人になるまでそれに気づかなかったが、確かに子どもの頃の記憶として私の中に大切に残っており、自分はそれをずっと追い求めているのだと知った瞬間があった。
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一つは、夏休みの朝の、私の部屋だ。
子どもの頃に私に与えられていた部屋は、南と西に窓があり、とても風通しがよかった。そこは和室6畳の狭い部屋で、夜には私は畳に布団を敷いて寝ていた。
昔の家だったからか?実家は夜には雨戸を閉める習慣があり、私の部屋は朝になってもかすかに漏れる外の光以外に部屋を明るくするものはなく、太陽の明かりで目が覚める、ということがほとんどなかった。そもそも子どもの頃から低血圧低体温だった私は、朝に弱く、自分から起きることは少なかったのだけれど。
それが夏休みとかで普段以上に朝寝坊をしていると、そのうちに母が、もう朝だよ、と私の部屋の雨戸を開けにくる。そしてまだ当時は夏の朝はそこまで暑くなかったので、窓を開けると心地よい風が入ってきていた。
あまりにも風がよく入るので、布団で寝ている私の顔にも、風で揺れるカーテンがかかってくるほどだった。それもまた煩わしいとは感じず、むしろ寄せては返す波のような心地よいリズムのようで、幸せな夏の朝の、気持ちよく涼しい風として、強く記憶に残ることになった。
ついでに言うと、母は私が夏休みの朝にいつまでも寝ていてもなぜか怒ることもなく(母は小学校教員だったのだが、当時は夏休み中の出勤が今の先生方よりも少なく、彼女自身も長い夏休み、ということで気持ちに余裕があったのだろうと思う)、それどころか私の布団に一緒に寝転がって、ゴロゴロしながら「いい風が入るねえ」なんてのんびりしていたのも、私が幸せに感じた一つかもしれない。
だから今でも風が通る部屋が私は大好きだし、風でカーテンが揺れる景色を、私はずっと心の支えにしてきた。大人になって家庭を持ち、家(注文住宅)を建てることになったとき、設計士さんが私や夫のそれぞれの「原風景」を丁寧に聞いてくれた。そこで出てきた私にとっての原風景がまさにこれで、それがわが家の建築プランの必須条件となった。
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もう一つは、家族でトランプゲームをやった記憶だ。
私の父はブリッジ、というトランプカードゲームが趣味で、自身が大学ぐらいの頃から70代半ばの今までずっと続けている。私が小さい頃にも、休みの日にはブリッジクラブに出かけ、たびたび大会などで全国あちこちに行ったりしていた。
それもあってか、わが家ではトランプゲームを遊びの一つとしてみんなでやることがあり、特に「大富豪(大貧民)」は子どもも一緒にできて、ゲーム展開のバリエーションに富んでいて、家族みんなが好きな遊びだった。
昔の実家の居間は畳の和室で、そこには小さなこたつが置いてあった。4人家族だった私たちは、そのこたつを麻雀卓のようにみんなで囲んで、そこでトランプゲームをしたものだった。ただ、父は普通の休日はそのブリッジでいないことも多かったので、父もいる休日の日で、夜更かしもしていい、お正月とかお盆とかがそのチャンスだった。そういう特別な時期に、家族みんなで特別に遊べるのが本当に楽しくて、私も兄も大興奮だった。
父はそもそもがそんなに子どもと遊ぶタイプの親ではなく、普段から子どもがはしゃいだりふざけたりするのに付き合ってくれることなどめったにない人だった。おまけにやっぱり結構昭和的な怖い人だったので(頭ごなしに怒る感じの人)、甘えたりうるさくしたり、ということも全然、できなかった。
でも、トランプで遊ぶときだけは、ちょっと対等だった。もともと子どもをあやしたりしない分、変に子ども扱いしないというのも父のいいところだったし(わかりやすく手加減したりすることもなかったが、逆に子どもをボロ負けにさせることもなく、その辺はとても上手な人だった)、こういうときはこうするといいんだ、こう考えることができるんだ、みたいな戦略的な考え方も見せて教えてくれて、それもおもしろかった。
そんな特別な日の夜にみんなで遊んで、でもそろそろ子どもは寝る時間だからおひらきね、となり、私も兄も駄々をこねるタイプでなかったので(というか父が怖すぎて駄々をこねられなかった)、おとなしく自分の部屋で寝るか…となったとき、一度だったか、布団に入ってもまだ興奮しすぎていて寝れないときがあった。トランプが楽しすぎて、その興奮でうまく寝付けなかったのだ。
それで、私がまだ父と母のいる居間に戻っていき、「寝れない」と言うと、父も母も「あら、興奮しちゃったんだね」と笑った。
私はわりと小さい頃から自尊心が強く、子どもの言動を大人に笑われるのが好きではなかったが、そのときばかりは全然印象が違って、「興奮しすぎて寝れない私」を父も母も全肯定してくれた感覚があった。「なんてかわいいの、こんな幸せな時間をあなたと過ごせて私たちも幸せよ」とでも言ってくれたかのような。
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大人になって、そんなこともあまり思い出さなくなった頃、、、そう、仕事にも慣れてきて、でももう一歩成長したいけど頭打ちなところもあって、どうしたらいいかわからない。さらには30代も見えてきて、プライベート的にもこのままでいいのか、と迷いが出始めている頃、、、私は手あたり次第、自己啓発だったりスキル向上だったりのセミナーに出ていた時期があった。
もともと勉強も好きで、何かを学ぶことを楽しく感じる私は、セミナーそのものも本当におもしろかったし、そこで新しい人たちや新しい世界に出会うのもとても楽しかった。さらには参加するたびに新たな気づきとその後の自分の成長も感じられて、すごく変化した時期だったように思う。
その中で出た一つのセミナーに、マインドマップセミナー、というのがあった。当時はまだマインドマップが世に出始めた頃?はやり始めた頃?で、今だったらこんなのをわざわざ教えてもらうの?というような内容だったかもしれないけど、とにかくマインドマップを初めて書いてみる、という体験をそこでしたのだった。
マインドマップの解説のあと、演習として、目標を真ん中に置いて、そのための道筋だったり、思いつくことをマップに広げていく、みたいなのが始まった。
真ん中に描く目標は、自分の仕事だったり、将来の夢だったり、それぞれなんでもいいのだけど、とにかく「絵で描く」というのが、そのセミナーでのやり方だった。
私は困った。
絵が苦手、とかいうことじゃなくて、言葉だったらなんとでも書けるけど、絵、だと象徴なので、自分の中で具体的に目標を描く必要がある。たとえばルイヴィトンのバックがほしい、ということだったらそれを描けばいい。でも…自分にとってのそのときの目標は、仕事での成果、とか、自分の成長、とか、はたまた素敵なパートナー、とか…言葉では書けても、絵に描けるはっきりしたものではないことに気づいてびっくりした。
周りの人の笑顔、かな、と思ってそれも描いてみたけどしっくりこない。恋人とか結婚かな、とか思ってそれらしきものも描いてみたけど、ん-ー、と思う。
すると、セミナーの先生が私のマップを覗いて言った。
「あなたが本当に欲しいものは何ですか?」
そう問われてしばらくしたあと、私が描いたのは…
こたつを囲み、一緒に笑っている家族の姿だった。
それを見た先生が、「うんうん!あなたが本当に望んでいるのはそれなのね!すっごいよくわかるよ!」と。
私は自分の望みがそれであったことに気づいて、
自覚してなかったけれど、
それを切に願っていたことを知って、
号泣した。
もうその頃には、自分の生育環境による葛藤、それゆえに自分が欠落しているものがたくさんあること、親の不完全さなどをとっくに自覚していて、自分の育ってきた家庭を手放しには感謝できない私だった。ましてや、そんな自分の家庭を将来の目標に、だなんてとても思えなかった自分だった。でも、その原風景だけは、その記憶だけはとても幸せな特別なもので、それだけは切に求めているんだ、と初めて自覚したのだった。
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その後、私は縁あって自分の家族を持つことになり、ついに自分が追いかけてきたその原風景2つを手にすることになった。
驚くのは、その自分の思いを自覚しながらも、それを手に入れたいと思って必死に動いたわけでもなく、気づいたらそこにあった、という感じだったことだ。
前にも少し書いたことがあるが、娘が生まれてからかなり長い間、夫と娘との3人家族として過ごすことが、私には全然しっくりこなかった。むしろ苦痛に感じたことも多かった。もっといえば逃げたかった。家族というものが本当に向かない人間だと自分のことをつくづく思っていた。
そして夫もそんなに子どもと遊ぶタイプではないうえに、夫の子どもとの遊び方は私が目指しているのとはまた違っていた。私は、理想のうえでは外遊びとか体を使う遊び、あとは一緒に何か工作をするとか絵を描くとか本を読むとか、そういう形で夫に関わってほしかったが、そのいずれも夫は興味を持たなかった。遊園地とかキッズランド的な遊び場に連れて行くとか、そういうことしかできない人だった。
たまにそういうところに連れていくこと自体は全然いいが、毎日そればかりできるわけではないし、じゃあ家にいるときは何をして遊ぶのか、というと全部私に任せきりで、私にはそれがとても不満だった。
また住まいに関して言うと、もともと私の祖父母が住んでいた家に入らせてもらった私たちとしては、ありがたいことにすでに家があったので、新たに自分たちの家をプラニングするなんて具体的に考えたことがなかった。
ただ、いろいろ狭かったり間取り的にも不便があったりしたし、やはり私の家系の住まいだったからなのか、夫は自分の家、という感覚が乏しく、もっと自分の家にしたいという思いはあったようだった。でも具体的にどうこうしようとはお互いあまり考えていなかった。
結婚して家庭を持った数年はそんな感じだったのだが…そのさらに数年後、自分の原風景を基にした家と、ボードゲームやカードゲームを家族3人でやって夜な夜な楽しむ日が、いつしかやってきたのだった。
あいにく、こたつを囲む居間を実現することはできなかったが(夫は和室があまり好きではなく、座卓よりテーブルがいいとのことで、こたつは断念した笑)、そこには自分が喉から手が出るほど欲しいと思っていた家族の姿が在ったのだった。
話は少し逸れるけれど、「自分の家」というものができて、夫は明らかに変わったと思う。何より、仕事から早く帰ってくるようになったし、よりリラックスするようになった。住まい、というのは本当に大事なんだな、と改めて思った次第だった。
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その後、娘もまた成長して、ボードゲームカードゲームも今も好きではあるけれど、ほかにやりたいことや、TV、youtubeなど好きなことも増えて、家族で一緒に遊ぼう!みたいなのは、一時よりはだいぶ減った感じがする。
少しさみしくありつつも、そもそも結構一人一人が個人主義的なわが家なので、それぞれが好きなことをしながら、それぞれリビングでくつろいでいる。
そして、新たに加わったものもあった。娘が今年の夏祭りですくってきたメダカに対し、夫が水槽を買ってきて熱心に世話をしているのだ(子どもはそこまで見ないくせに、生き物にはこんなに優しいのね…と私はひそかに思う)。その水槽を3人で一緒に眺めるとき、かつての原風景と重なる感覚があって、私はなんともいえない幸福感に包まれる。
私は生き物は飼った経験がほとんどなくて、どちらかというと苦手なのだけど、夫はわりと生き物が好きで(虫は苦手だけど)、特に他のペットに比べてアクアリウムはわりと手軽だというのもあって、なんだかいつも楽しそうに水槽を見てはコメントをして、私たちを笑わせてくれる。
娘自身はメダカや生き物に対してそこまで熱があるわけではないが、家族3人で水槽の中の生き物を眺め、それについてあれこれ話すのは、本当に楽しそうだ。いつしかこれも彼女にとっての原風景になるのだろうと思うと、なんだか胸がいっぱいになる。
ちなみに…全然余談ですけど、夫が水槽と合わせて買ってきた水草に、サカマキガイ、というものの卵が付いていたらしいことが、あるときそれが孵化して突然水槽内に現れたことでわかった。夫は超興奮。そしてそのうちすぐに大きくなり、タニシのような、ヤドカリのような、カタツムリのような、という感じで、水槽内を闊歩するようになった。
はじめはちょっと気持ちわるい…と思いながらも、水槽内をきれいにしてくれているし、なかなかおもしろい動きで愛着があるね、なんてみんなで言ってたのだけど、、、
どうやらサカマキガイは外来種?らしく、雌雄同体で一個体のみでも繁殖するらしい、、、
というのを知った頃には、すでに大量の卵らしきものがうっすら見受けられるようになり、それがまた孵って、小さなサカマキガイっぽいものが、うようよ増殖していくようになったのだった…!(その繁殖力の強さについては、ネットでいろいろ書かれているので、ご興味ある方はぜひそちらをご参照を…)
それを一番苦々しく思っているのは私なのだが(笑)、ただ、それに関するあれやこれやも家族3人でやっていて、それもまた、とてもおもしろいのだった。私は生き物好きじゃないけど!でも、こうして娘の「幸せな記憶」は重ねられていくんだな、と思うと、すごく嬉しい。
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みなさんにとっての「原風景」「幸せな記憶」にはどんなものがありますか?
それは家族との記憶、家庭での記憶、とかではなくても、たとえば通学途中にあった草花、とか、近所のスーパー、とか、、、どこか記憶の片隅になんらかがあるかもしれない…と、私はふと聞いてみたくなるのでした。