・いじめのニュース報道に対する大人たちの行動のどん詰まり感
「信用してもらえない」13歳の死…放置されたSOS、救う手立ては【報道特集】(TBS NEWS DIG Powered by JNN) - Yahoo!ニュース
本日のヤフーニュースでこんな見出しの記事があった。
私自身もいじめを小中高と受けていた経験から、自分の人生に疑問を感じ、哲学にはじまり発達心理学、小児心理学などの本を斜め読みして独学してきただけに、相次ぐ事件の報道に「またか」という気持ちでいっぱいになる。
正直記事を読んでいて、この報道自体が被害者側に心情に大きく偏ったバランスを失った書き方をしているように思えたのだ。
その理由について後述していく。
P:まず記事は遺族側の事件への調査行動に対して、まともに取り合わず我関せずを貫く学校側や教育委員会側という構図で成り立っている。
要するに遺族側による被害者がどのようないじめを受けていたのかということに対する真相究明活動に対する教育側の対応についての是非というわけだが、真相を究明されてはいじめがあったことが露見してしまう。ひいては学校や教育委員会側の責任が問われるということになるため、表面上はどうあれ保身のためにはどうあっても真実は隠蔽したいということになる。
実は事件の解決には戦術、戦略的な視野に立って物事を見る必要があるわけだが、そのことに遺族側は気づいていない。あくまで感情的に教育側を叩くだけである。これでは物事が進展するはずもない。
遺族に対する感情的な配慮と、物事を解決するための視点は切り離して考える必要がある。
ここが出発点なのだ。
そもそもその出発点に偏りがあれば、どちらに進めばよいのかわからなくなり、地図の見方さえも誤ることになる。遺族も記事を書いた記者もこの視点がまるで抜け落ちているのだ。
R:遺族はまず全体を俯瞰して、教育側が真実を隠蔽する目的に対して自覚する必要がある。
その上でこちらの目的を定め、相手の責任を追求するなり賠償金を払わせたいのであれば、成果の上がらない学校を舞台とした究明活動に早々に見切りをつけるべきだ。
なぜなら組織である相手が隠蔽しようとした場合、一個人である遺族側にそれに対処する力はないからだ。それほど組織と個人の社会的な力の差は歴然である。であるならば、記事にされたようにペンの力を借りる必要があるが、これも全能というわけではない。
学校側が学校で起きたことを隠蔽しようとした場合、よほどのコネがなければ突破口を開くことは出来ないだろう。
それこそ同クラスの他の保護者と仲が良いとか定期的な情報交換をしているとかであるわけだが、遺族である母親はシングルマザーで高齢者施設で看護師として働いているそうで、週に三回透析治療も受けている。
であればPTAの集まりに加わる余裕はないだろうし、同クラスにコネも作りようがない。その点でかなりの不利を強いられていることを自覚するべきだ。
となれば最悪どうするかを考える必要がある。
私は決して非合法的行動を推奨することはしない。しかしこうなれば最悪自分の命さえも消耗品のように使って物事の解決を図る必要があるのかもしれない。
息子の無念を晴らすという目的達成を至上のこととするならば、深夜に学校に侵入して証拠を探すなど法に触れることをする必要もあるかもしれない。
お硬い頭で教育側と頭突きしあっても状況は変わらないのだ。目的達成のために物事を柔軟に考え、搦手という選択肢を念頭におく必要がある。
E:記事の記述に関しても伏せられた部分が多い。
遺族である母親が学校側に息子の死について尋ねる部分も、その尋ね方であったり態度であったり、会話の切り取りこそあれど母親自身の行動に対して明確な記述がない。
もし母親を学校側が過度に警戒するような言動があったのであれば、これははっきり言って悪手である。
余裕のない人間は、どうしても取る手段が近視眼的にならざるを得ない。だからこそ、相手に無駄な警戒感を与え、付け入る隙を自ら減らしてしまうのだ。
これは明らかに戦術戦略的視点に欠けた行動であると言えるのではないか。
P:私が気になったのは記事のバランス感覚の欠如である。
過度に被害者側を持ち上げる記事は、それ自体叩かれることは少ないかもしれない。
しかしこれがいじめ問題の解決につながるかという点に関して言えば甚だ疑問である。
被害者側と教育側、その双方の状況をフラットに見ることが出発点の要件であるがゆえ、そもそも過度な感情というものは目的の達成に対して障害にしかならないのである。
これはアドラー心理学の大家、岸見一郎氏も言及しているところである。
最後に大前提として、【私はいじめを憎んでいる】
死へと追い詰められた被害者に対して【同情を禁じえない】
この事実はいじめを受けていた学生時代から変わることはない。
しかしながら、こういった記事を見る度、遺族側に度を越して配慮し、目的達成を意識しない情報が世間に流布されていることに違和感を覚える次第である。