・長野駅前で発生した、殺傷事件について思うこと
P:正直言って「またか」という感じである。
以前書いた記事で北九州のファストフード店での殺傷事件について記述したのだが、とはいえこうも短期間で相次いで同様の殺傷事件が起きたことについては正直その発生頻度に驚きを禁じ得ない。
今回の事件の被害者となった人々、及びその関係者には謹んでお悔やみ申し上げる次第である。
R:こういう事件が発生し、それが報じられる度に犯人の知り合いにインタビューして幼少期がどうだのなんだの言うが、それを言ったとしても事件を防止ないしは抑止することは不可能だろう。
そんなものはニュース番組の尺稼ぎに過ぎず、所詮はコメンテーターの報酬分程度の意味しかない。
私の大方の予想では氷河期世代の犯行に違いないとそれなりの根拠の上で思っていたが、案の定の年齢の容疑者であったことに納得しかない。
私自身も氷河期世代である。こういう事件が取り沙汰される度に、同世代であっても自分同様頑張って犯罪を犯さずに普通に生活している人々も多いだろうになぜ彼らだけがそうなってしまったのか理解に苦しむところではある。
だが同情しないわけではない。逮捕されたときの容疑者の頭部。度重なるストレスによるものなのか円形脱毛症があちこちにあり、多大なる心労が負担になっていたのだろうと察するにあまりある。
もちろんそれと犯罪を犯したことについては別で考える必要はあるが、容疑者を責任を取らせることを除いて、ただ叩くことだけでは問題の解決は遠いだろう。
あと今はまだ容疑者である。起訴されて被告となってからが本番であるため、決して容疑者の段階で犯罪者扱いしないように注意喚起したい。もし誤認逮捕で冤罪事件となったら自分で自分を責める羽目になるだろうからな。
E:私は彼らの多くが無職であることが理由、ひいては今回のような犯罪に至る動機や原因であると思っている。人間は社会的な動物である。孤立していては生きてはいけないことは狩猟時代と変わらないが、生きていくということが生存以上の意味を持つようになった現代においては、それ是非が自身の自己肯定感に直結する。
つまり社会的に仕事があれば、自分が必要とされているのだから自分に一定の価値があると思える。そうすれば他人の命にも同様に価値があると思えるのではないか。
加えて仕事で忙しければいちいち人を刺そうなどとは思うヒマがない。つまり二重の意味で犯罪の防止や抑止になるのではないかと思っている。
これはほぼほぼ事実であろうが、こと氷河期世代とされている人々にはこれこそが足りていないのが現状である。
P:ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)と呼ばれる言葉がある。これは他人との関わり合いがすなわち生きていくための動機づけや生きていくことに対する助けとなるというものである。
つまり生きがいというものは、自分ひとりでは獲得することが出来ないのだ。となれば他者との関わり合いの中で獲得していくしかない。
私自身も幼少期に家庭の問題、不和があり、それが自分の人格形成に多大かつ不可逆な影響を与えたことは自覚している。
しかしそこで家族を含む他人は【敵】であると心底で認識してしまってはそもそも社会的に生きていくことが困難になってしまうのだ。こうなっては独り立ちなど夢のまた夢である。
自分はいわゆる大人になってから自信の再獲得に成功した手合である。もしそれに失敗していたら彼らと同じように誰かの大切な人を殺傷せしめ、人生において取り返しのつかない過ちを犯していたのかもしれない。
そう思うと同情心に加えてなんとも言えないやるせなさが込み上げてくる。そうなるとこういった文章を書き連ねたくなるのである。