「できることは自分でしてもらう」の意(看護のセオリー)
私は怒っている。看護界に。何よりその一員である私自身に。
私は数年間、教員をしたことがある。
ある日、看護学生の2年生を実習に連れて行った。
2年生と言えば正直提供できる看護はコミュニケーションくらい。
援助することより、患者さんから「していただく」事の方が多いくらいだ。
学生が私を探していたと看護師から声をかけられ、
慌てて学生の元へ行った。
「患者さんの背中を流そうと思ったんですけど、先生いなかったから。
もう良いです」と実に残念そうだった。
そう、私が学生だった頃とは大違いで、
患者さんに何をさせていただくにも何かと制約がかかる。
患者さんの背中を流すのだって、教員か看護師同伴で無ければ許されない。
かわいそうなことをしたと学生に話かけようとした矢先、
先ほどの看護師が来て
「あの患者さんは自分で背中が洗えるのに介助する必要があるんですか!?
私にはわからない!!」と凄い剣幕。
え???何から説明しようかと戸惑う間もなく
彼女は別の仕事に呼ばれて行ってしまった。
「自分でできることは自分でしてもらう」
「過剰な援助は患者にとって害である」
とは私が学生の頃にも教えてもらったセオリーだ。
理由はできる機能を使わないことで低下させてしまったり、
心の退行(子ども返り)を起こさせてしまうからなど。
もう30年以上前からの教えがそのまま、
進歩も無く存在していることに正直あっけにとられた。
精神看護は何を教えてきたのだ。
身体機能的に可能な事でも、誰かに助けてもらうことで
心のエネルギーが高められることがある。
その結果、生きる意欲、生活の意欲につながることがある。
患者さんは老年期の男性で職人さんだった。
早く現場復帰したいとリハビリも頑張っていた。
学生にも親切にしてくださり、あたたかい関係を築かせてもらっていた。
背中を流すというのは学生からの提案で、
快く引き受けてくださったのだ。学生のために。
そんな患者さんが学生の「機能的には必要の無い介助」を受けたことで
退行するとでも?
「学生さんがやってくれたんだから、看護師さんだって手伝ってくれよ」
と次回から希望してくると?
その手助けをすることが患者の益になるのか、害になるのか。
そんなアセスメントもできない現在って・・・。
万が一、退行がみられたとしても、それは看護で挽回できるのに・・・
ということを、この30年間教育してこなかったということだ。
私もその一員に数えられるのだから情けない。
私は今まで何を見てきて、何を教えてきたんだろう・・・。
患者さんを身体的・心理的・社会的に「看る」というのも
30年以上前から教育されていることだが、
どうも身体中心に看ている看護師が多いように思える。
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