戦跡の栞(11)
西山附近
北京の西部一帯帶、連巒の環續するところこれ西山と偁する。萬壽山、玉泉山とともに北京近郊の勝區として著はれ避暑遊覽の好適地である。
〔八大寺〕
黄村反站の西北に平陂山があり、覺山、盧師山その側背に鼎峙して、翠巒の中山門寺塔その間を點綴するもの凡て八あり、卽ち長安、證果、靈光、香界、三山、大悲、龍泉の各寺に寶珠洞を加へていはゆる八大寺の偁を得た。これら寺院の多くは明代の創建に係り、康煕、乾隆年間の重修を徑たもので寶珠洞その最高所を占め、長安寺は最低所に在る。
〔碧雲寺〕
寺城は元代に創開され、明の正德天啓中、追次重修を徑たるもの、規模雄大で殿宇頽廢せるも結構輪奐の美、なほ當時の俤を偲ぶに足る。寺中羅漢堂内の五百羅漢は見るべきもの少なくない。本堂の後方に大理石造りの五座金剛寶塔あり、乾隆十三年西藏僧の印度須彌山よりもたらした模型によって建造せられたものだといふ
〔湯山〕
こゝは北京安定門を距る北方十五里昌平管内に在る。北京と十三陵所在地との中間に位するところで、茫々たる平野の中には二つの岩山があるが、一を大湯山、他を小湯山と偁してゐる。前者は標高約二百尺、周圍約二哩で、山頂及び觀音堂、娘々廟、普泉廟、西大歡廟の廟宇が點在し、戸數約二百の一部落である。後者は高さ僅かに三十尺餘、周圍約半哩、山頂に佛爺廟、北麓に老爺廟、東南に關帝廟、東に龍王廟等があって戸數約一百。湯山とは實にこの二部落を合偁したもので、随所に温泉が湧出してゐるので、土民はこれを引いて浴槽を設け、旅館を兼營してゐる。四季浴客の來遊するものが少なくなく、支那人は多く土民經營の客棧に入り、外人は關帝廟に滯在して小湯山行宮内の温泉に浴することを默許されている。土地の周圍は稲田で夏秋の候、こゝに遊べば雅趣掬くすべきものがある。
小湯山行宮は淸の世宗雍正帝の創設に係ると云はれているが、行宮内には次の諸設備がある。「漱瓊」の額を掲げたのは浴室で「澡雪心神」と題したのは浴後の休憩所である。飛鳳亭は八角形の亭榭で、その昔は、頂きに飛鳳の置物があったが、亭の廢頽と共に今は倉庫内に収容せられた。開襟樓は演劇を天覽に供したところ、又滙澤閣には龍王を祭ってある。温泉井は大理石で造られた二個の大湯池で、行宮廣庭の左右に竝んでゐる。左方の湯池は周圍約六十四尺の長方八角形で、深さは約三十尺、その温度は沐浴に適して、遊泳しても差し支へない。右方の湯壺は周圍約百五十尺、深さ約三十尺、温度頗る高く、到底沐浴に堪えない。外人等の入浴するのは前記大湯池の傍の小湯池で自由に冷水をうめる設備がある。
京通支線
これは北京正陽門車站より通州に至る延長十五哩三の支線で、毎日三回の旅客列車の便があり、汽車行程約五十分、賃金一等九〇仙、二等五五仙である。但しこの區間列車は豐臺を起點とし永定門及び通州岔道の二車站を経て、一旦正陽門車站に入り、更に通州岔道站に引返して通州に向かふのを例とするけれど、北京よりの旅客は正陽門、若くは通州岔站より乗車するのが通例である。
通州(トウン・チオウ)
通州と北京朝陽門の間は、坦々砥の如き良道(三十六尺幅の舗石道)が通じてゐて、一方大運河の水運を擁し、白河を介して天津にも通航の便がある。昔の通州は中部支那方面の貢糧中繼所として、北京の咽喉を扼する要衝であったのであるが、鐵道開通の結果はその地位を失ったのと、北淸事變の際兵燹にかゝって、今なほ舊態に復しない。通州は今回事變に際して、後で述べるやうないはゆる通州事件の起こったところで、何人も忘れ得ない恨み多い土地となったのだ。
城市は明代の創建にかゝり、更に淸朝に至って増築したのであるが、城垣も今は廃頽して、滿目荒寥たるものがある。城垣には通運、朝天、迎薰、凝翠の四門があって、流石に各門に通ずる十字街頭に立ってゐる鼓樓の殘影には今尚往時の繁榮を語るものがある。八里橋は通州の東北約三哩の地點に在る石橋で、幅約四十八尺長百九十尺「長橋映月」の勝を以て聞えてゐる。通州八景の一つである。
通州事件
昭和十二年七月二十九日午前三時、冀東防共自治政府所在地通州に、未だかつてなき邦人大虐殺事件が起きたことは誰もが知る通りである。
事件といふのはかうである。長官殷汝耕の直接部下で、彼の最も信頼してゐた保安隊教導總隊が支那軍戰勝のデマを盲信して、二十九軍の敗殘兵と共に、約三千の兵力を以て突如兵變を起こしたのである。
當時同地守備の任に當ってゐた我軍は、僅かに約百名の兵力であったが、よくこれに應戰、急を知った飛行隊ならびに萱島部隊の救援によって三十日には敵兵を掃蕩して、市内の治安回復は完了されたのであった。
しかしこの叛亂事件によって、同地特務機關は細木機關長を初め、關員は全滅し、守備隊にも戰死十八名、負傷者十九名の損害を蒙ったのである。しかも暴戻なる支那兵は攻撃の目標を主として非戦闘員たる我が居留民に置き、言語に絶する暴虐を加えへ、その大部分を門外に拉致して惨殺するなど我が居留民約三百八十名中死を免れ得たものは僅かに百二十餘名、しかもその虐殺の前後における鬼畜にも勝る惨虐なる行為は眞に耳目を掩はしめるものがあり、我國民を悲憤せしめたのである。
〔悲惨を極めた特務機關〕
一度、通州特務機關と鮮やかに書かれた門をくゞると凄惨な籠城のあとに思はず身震ひさせられた。門の入り口の部屋にゐた數名の機關員は銃聲と共に甲斐少佐の命によって應接室に駆けつけやうとしたが、庭に出るや否や機關銃の亂射にバタバタと撃ち殪され、屍體は石油で焼かれたとのことである。更に甲斐少佐の居室に入れば少佐が軍刀と拳銃を兩手に持ち鉢巻姿のまゝに壯烈な戰死をとげてゐた。
應接室にはどす黑い血痕が飛び散り部屋は根こそぎかきまはされ鬼氣人にせまるものがあった。その隣の事務室には黑板に書かれた「二十九日午前三時半襲撃さる」の文字も一入悲壯なものを感じさせた。
當時特務機關には四十挺餘の拳銃、小銃があったのだが、これを全部取り出すひまもない程突嗟の間に襲撃されたが、關員は沈着よく五十發の銃彈を撃ち盡してゐたところを見れば、全く矢盡き刀折れての壯烈な最期であったのである。
尚通州惨劇の中でも最も悲惨を極めたのは旅館近水樓だった。主人夫妻女中六名、それに宿泊客を合わせて十餘名が或は現場で、或は銃殺場に拉致されて惨殺されてゐた。こゝは女の被害者が多かっただけに、玄關や廊下を距てた三疊の間等には血痕のベットリついた髢が散亂して、一入凄惨な氣を與へた。
しかし同地も七月卅日、萱嶋部隊の到着によって、治安は全く舊に復したのである。こゝで京綏鐵路によって、觀光の適地を説明しよう。
淸河鎮(チン・ホオ・チオン)
戸數約百の小さい町ではあるが、一條の溪流に沿ってゐる。これは淸河と偁せられて、萬壽山の西方玉泉山の淸泉を水源としてゐるのである。これに架せられた石橋は、明の永樂年間、この地が十三陵の通路に當るところから、特に架設されたもので、建築の壯麗今なほ人目を驚かすに足るものがある。
沙河鎮(シャ・ホオ・チオン)
こゝは戸數約二百、安濟、朝宗の二橋がある。市街はこの二橋の中間にあるのである。この地には明代の行在所があり、古來十三陵に行幸する毎に、こゝに駐蹕せられたといふ。世紀一五四〇年の重修にかゝる行宮は、四方役十町の周圍に四門を穿つた鞏華城の中央にあったが、今は、僅にその舊趾を存するのみである。
南口(ナン・カオ)
この地は、八達嶺山脈の南麓に位して、本線中、張家口につぐべき要站である。附近からは穀物、果實を多く産出して、殊に柿はその名が高い。この地は今回皇軍の京綏線掃蕩戰で有名になったところである。又古来「居庸」三關の一として著名なる史蹟をゆうしてゐて、明の十三陵、湯山温泉場若しくは内長城の觀光客も一度はこゝに下車して史蹟を訪ねるのも無駄ではあるまい。
南口城は、城壁はあまり高くはないが、北は山に據り、南は渓谷に臨んだ要害の地である。山腹各所に狼煙墩と呼ぶ烽火臺が點在して、さながら往時の陣形を物語ってるかのやうである。
〔明十三陵〕
南口から十三陵までは、山道直徑八哩、昌平州經由約十一哩、往復約七時間を要する。この間驢馬或は驕子等の便がある。いづれもホテル或は驛前で雇ふことが出來る。北京德勝門から淸河、沙河鎮及び昌平縣を経て十三陵迄約二十六哩の道は従來北京よりの參陵道として知られたるところである。昌平縣までは車路で轎車又は馬車が通じている。北京安定門から湯山(約十六哩)及び昌平縣城東」(約二十五哩)を経て十三陵迄約三十哩であるが、この道は途中湯山温泉に立ち寄る旅客に利用されてゐる。
十三陵は明朝第三世永樂帝以下第十七世壯烈帝に至る十三皇山陵の謂で、昌平縣城の北郊約五哩の地に在る。先づ陵域入口に至れば精巧なる彫刻を施した大理石造の大牌樓がある。これを潜って約一哩弱で大紅門に達する。門外兩側の石碑には「官員人等至此下馬」と刻してある。更に進めば「大明長陵神功聖德碑」と題した碑亭がある。これは第四世仁宗帝の御製で、碑の裏面には淸朝乾隆帝の御製に係る哀明陵三十韻の時を刻してある。更に前方に欞星門があり、俗に龍鳳門と偁し、門前に十二の石人がある。卽ち四勳臣、四文臣、四武臣がこれで、別に石獸二十四但、卽ち馬、麒麟、象、駱駝、獬豕、獅子等各々二對づつ、一對は蹲ってゐる。昌平山水記に曰く「明の宣德十年(世紀一四三五年)四月長陵及び献陵を修むる時初めて石人、石獸を置く」と、又曰く「大紅門内蒼松翠柏無慮數十萬本」とあり憶ふに石人、石獣は當時は綠陰風靜かなる地上に眠ったであらうが、今は株を去り根を抜いて、この附近は一樹をも存せず、空しく草野の間に天日に曝露してゐるのである。この附近から前方遙かに天山一帶の山脈を背景として、松林の間に隠顯する各陵の黄瓦紅壁門樓の參たるを望むであらう。更に進めば又一門がある。題して稜恩門といふ。北部支那においては稀に見る巨材を用ひて、その建築は頗る壯大である。殿側は白石の欄が繞らしてあるが、これこそ長陵中の景観である。殿の後には、白石房、白石臺等があり、なほも進んで寶城に至れば、これ卽ち御陵で、城下にトンネルが穿たれている。これを登ると、歩路は東西に岐れて城上に達するのである。城上には一樓があり、「長陵」と題してその内に大碑がある。尺大の隷書で「大明成祖文皇帝の陵」と刻してある。その他の各陵は皆長陵の四周に散在してゐるが、その構造はいづれも大小同異である。
許庸關(チュイ・ユン・コワン)
南口より北進すること約五哩で、兩山の屛立の間を一峽道が通じてゐる。これを形容すると、一夫路に當れば、萬夫進む能はずといふやうな嶮隘がある。これがいはゆる居庸關で、現今は張家口に通づる要路である。馬車の往來絡繹としてゐて、人家約百戸、こゝに税關が置かれてある。關城と偁する圓形の堡塁が、山脚の相迫って、わづかに一條の溪流を通ずるほどの最狭地點に築かれてあって、左右の山頂にその羽翼を延ばしてゐる。又關城の中央には過街塔がある。その南北の大路に石を壘んだものが大道上に架してあるが、車馬はその下を通ってゐる。高さ約三十尺、厚さ五十尺、土民はこれをt塔坐兒と呼んでゐる。塔の内部兩側には佛像及佛經を刻してある。尚居庸關を距る約三哩の地點に一小城がある。これを上關と偁し、これにもまた居庸關の二字が刻んである。
彈琴峽(タン・シン・シイヤ)
居庸關を距る約六哩の地點に在る。山勢相迫って一小峽をなしてゐるのであるが、徍昔淸泉石罅に流れて彈琴の響きを發したと傳へられ、それ以來此の名がある。峽上斷崖の間に佛閣があり、規模は小さいが頗る雅趣に富んでいる。
靑龍橋(チン・ルン・チイアオ)
八達嶺の東南面頂界外に接する車站で、山峽の風光はえも云はれぬ趣がある。殊に長城への觀光客は、當車站に下車するのを順路としてゐる。前記居庸關、彈琴浹への探勝も、南口よりの攀登路に比して、この地から下降路をとるのが樂である。
八達嶺(パア・タア・リン)
靑龍橋車站の西約一哩の地にある。山中蜿蜒たる城墻は下石上磚殆んど北京城壁に、一歩を譲るのみで、その建築の雄大さは實に驚嘆に値する。こゝ八達嶺より長城を望めば、西方は重
壘たる連山と共に、遙かに雲際没し、東方は削ったやうな山勢を急下して深山に落ち、更に急傾斜の山腹を一直線に走る長城は山頂に延互する等溪山の間に隠顯して、全くその偉觀は、何日眺めてもあきることがない。
さて京綏線でも一度北京に戻って、今度は京漢線によって北京にしばしの別れをつげなければならない。紫禁城よ、さようなら、前門再見罷!(チェンメン ツァイチェンバ)