戰蹟の栞(96)
戦線遂に湖北に展開す
〔黄梅の占領と敵の揚子江決潰〕
安慶、宿松を占領後揚子江北岸の敵を掃蕩し逐次大別山脈南麓を進撃した我が軍は、八月二日午前八時遂に安徽省、省境を突破し黄梅に迫った。黄梅には宿松の包圍戰によって撃ち洩らされた敵と、大別山脈中の敵根據地英山方面から增援された數萬の敵が李品仙の指揮下に、我が進撃を阻止しつゝあったが、我が方は先づ神崎、前島の陸軍航空部隊をして黄梅の敵狀偵察の爲、果敢なる爆撃を行はしめたところ、敗戰に次ぐ敗戰の爲、全く戰意を沮喪した敵は、早くも動揺を來して黄梅をも放棄して潰走し始めたので、陸軍の荒鷲は暁闇を利用して敗走する敵密集部隊を、縦横無盡に爆撃掃射して、浮足立った敵に殲滅的打撃を與へた。一方地上部隊は、敗退の敵を急追撃しつゝ帝前驛、香林舗を瞬く間に陥れ、二日午後には早くも黄梅縣城の前面に迫った。卽ち中野、若松部隊は宿松、黄梅間本街道を正面から壓迫、長谷川部隊は東方側面から遊撃軍として果敢なる攻撃を開始したが、我が猛追撃によって命辛々黄梅に逃げ込んだ敗走兵の爲、黄梅縣城は忽ち大混亂に陥り、敵は有力なる既設陣地に據り我に數倍する兵力を保持しながら、同日午後四時黄梅をも放棄して潰走するに至った。
黄梅には三十一軍を中心とする約六ヶ師があり、敵が揚子江北岸地區に於ける漢口防衞第一線として堅固なる陣地を構築してゐたところで、大別山脈英山、麻城、武勝關等と共に天然の要衝として知られたところである。蔣介石は黄梅の餘りに早い陥落に驚き、山東南部戰線より後退して、蘄水方面に待機中の中央軍に對して增援を命令する一方我が軍の猛追撃を喰ひ止める爲に、黄梅南方咸湖附近の揚子江左岸を決潰せしめた。決潰による浸水地帶は、宿松南方の龍官湖から西は廣濟南方の武山湖に及び、浸水面積東西八十キロ、南北四十キロ、卽ち三千二百平方キロに達し、避難民約五十萬、村長十五名は蔣介石の非を鳴らして我が軍の救援を懇請した程で、自國民の生活と生命とを犠牲にしてまで、斯かる非人道的行為を敢へて為す蔣介石は附近一帶住民の非難の的となった。
〔廣濟へ〕
宿松黄梅間の猛攻撃猛追撃戰の爲、黄梅占領後靜かに英氣を養ひ機會を窺ひつゝあった我が軍は、突如進撃を開始し、八月二十七日拂曉敵の虛を衝いて一擧黄梅北方三里、大別山脈の南に連なる多雲山一帶を屠り、敗敵を急追、大別山南麓を西方に猛進、三十日午後六時には廣濟守備の敵前線陣地大河舗を一里に臨む地點に到達、石山堡、洪家嶺、楓樹嶺の線を確保した。
黄梅、廣濟間は大別山脈が揚子江北岸に迫る隘路を形成し、漢口防衞の最も鞏固なる天嶮であって、敵は天然の陣地に四川軍、廣西軍及び第六十七軍の第百五十師、第八十四軍の百八十八師、百八十九師の二ヶ師、第六十八軍の百十九師、百四十三師の二ヶ師及びその他の雜軍を合せて約八ヶ師を配備し、蔣介石の嚴命によって廣濟死守を豪語しつゝあった。三十日石山堡、楓樹嶺の線を占領して一氣に大河舗に迫った中野、佐野、若松、長谷川、藤村、原田の各部隊は躍進また躍進、大別山脈中の山嶺を次々に確保して、幾度か山間の間道傳ひに奇襲を敢行、砲兵隊は砲車を山頂に引揚げて猛攻撃を續け、三十一日拂曉敵が頑強に抵抗した廣濟前面第一の難嶮大河舗を完全に占領、また左翼方面より進出した一部は、潰走する敵を左側背より急追、大河舗を突破して廣濟街道の左右を並進、聳立する山岳地帶を突破して双城驛を離るゝ四キロ立頭砦、梅霞、馬沒河の線を確保、同六時には佐野部隊の目覺しき進出によって、双城驛をも陥れ、折柄の夕陽に日章旗を燦と輝かした。
〔廣濟陥つ〕
廣濟前面の敵第一線陣地を攻撃すること二日、漸くにして總攻撃の據點を奪取した我が軍は、九月一日より愈々本防禦陣地の攻撃に移り、戰線數キロに亘る大横隊の儘、峨々たる山岳地帶の大進軍を始め、廣濟街道に沿ふ岳陵地帶の堅固な敵守備陣地は次々に攻略され、夕刻六時早くも車坊舗を三キロ前方に見て徐家巷、錢家樓高地一帶を占據、愈々廣濟方面の敵主力陣地猛攻を開始したが、陸軍航空隊は同日雲間を縫って廣濟上空に出動、爆音勇ましく城内敵陣地の猛爆撃を敢行、我が戰線からは木端微塵に吹き飛ぶ敵陣の凄愴成る有様が手に取る如く觀取された。
同日夜間より俄かに天候險惡となり、篠衝く雨に風さへ加はり、山岳地帶の作戰は極めて困難となったが、我が軍の士氣は愈々昂り、巧妙にも豪雨を衝いて夜襲を敢行、猛烈なる抵抗を試みる敵有力部隊を蹴散して、二日早朝荊竹舗を陥れ、更に敵を西方に驅逐して、二日午後六時遂に合掌山の要衝を占領した。また別動隊となって双城驛から西進した長谷川部隊も同日午後五時半、廣濟街道の要衝たる車坊舗の東北大波を陥れ、同七時には東坊舗も陥落、附近一帶に聳ゆる八百米以上の廣濟前面敵據點は完全に我が制壓下にをさめられた。
標高八百米の大別山脈系の諸嶺と、これに連なる岳陵地帶を利用して頑張る敵の抵抗線に、猛銃火を浴せて各要衝を次々に奪取した我が軍は、九月三日拂曉より愈々敵が最後の據點、赤家舗、茅粟塞、田家塞、大富山の線に肉薄、先づ藤村、原田部隊の掩護砲撃下に突撃、隨所に白兵戰を演じつゝ猛烈なる抵抗を排撃して三日夕刻最後の線を突破し、正に廣濟城を指呼の間に臨むに至った。
かくて我が進撃軍は四日拂曉一時休息を取り英氣を養ひ、各部隊の整頓を待って、一齊總攻撃を開始、佐野、若松部隊は五日午前一時月明を利して山嶺の起伏を進み、前後數回に亙って大夜襲を敢行。敗走の敵を追って暁近く西方荊竹舗、株樹舗の線を一氣に突破し、午前八時陸軍航空隊の掩護空爆の下に靑蒿舗前面の敵陣近く殺到し、白兵戰を以て奪取した。我が總攻撃は随所に敵の堅壘を撃ち破り、或は數倍の敵を山間の溪谷に押し詰めてこれを殲滅し、午前十時頃には概ね納家砦、獨山、許可舗の線に進出、猛攻撃に移った。
卽ち中野、長谷川部隊は左翼方面より、佐野部隊は楊家舗附近より、また中央若松部隊は五里坡より夫々友軍荒鷲十數機の空爆と藤村部隊の掩護射撃の下に全面的攻撃に入った。
我が軍の猛攻撃に堪り兼ねた敵は、早くも廣濟城より逃走する部隊續出の有様で、我が前島、釘宮、田中の航空隊は廣濟西方街道を潰走する敵に銃爆撃を加へ多大の損害を與へた。
一方地上部隊の廣濟攻略は着々として進捗し、第一線部隊は六日午後三時早くも廣濟城内に突入、就中、若松部隊、野口隊、田中隊の如きは、數名の兵を以て機關銃を城壁に引揚げ、身を以て敵中に躍り込み、機關銃の猛射を以て忽ち城内の一部を確保、後續部隊も亦城内に殺到して完全に城内を占領し、蔣介石が十萬の兵を集め、揚子江北岸に於ける漢口防衞の最大陣地と恃んだ廣濟は我が北岸進撃部隊によって完全に突破され、我が漢口攻略作戰は劃期的大進展を見るに至った。
廣濟は大別山々脈の南麓、さきに皇軍の占領した黄梅の西方三十餘キロの地點にあり、安徽省方面から漢口への最短道路上にある。武漢防衞の敵第二線陣地たる蘄春の前線據點である。廣濟の占領により揚子江岸の敵は漸次包圍さるゝに至り、武漢の敵は非常な脅威を感ずるに至った。淸朝時代には湖北省黄州府の管下にあったが、國民政府となってから湖北省政府直屬縣となった重要地で、この地方一帶は農作物を豐富に産出する。
廣濟を占領された蔣介石が、李品仙に代はる崇禧の指揮下に更に大軍を集結、同地の奪還を企圖し、大規模の逆襲戰を敢行したが、同地が漢口防衞上如何に重大であるかを窺ふことが出來やう。
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