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戰蹟の栞(24)
大同附近の戰闘
張家口より大同まで
數次の會戰に我が軍の鋭鋒に抗しかねて冀察省境より潰走した敵は、遠くこゝ大同方面に退却し、同地の東北方約十里の陽高から陽原を經て、更にその東南方蔚縣の線に陣地占領を企圖しつゝあった。殊に山西の第七十二師全部は蔚縣の西方廣靈にあり、敵の部隊が西河營、蔚縣、淶源等に在る事が空中偵察により判明、八月卅日中富部隊、及び園田部隊は斷乎これが追撃爆撃を敢行、中富部隊は淶源、園田部隊は西河營、蔚縣の兩地を爆撃し、陣容建直しのため集結中の敵に殲滅的打撃を與へたのである。
一方、これより先、廿九日關東軍と協力すべく出動した他の我が部隊は、卅日午前九時赤城を占據し、獨石口、赤城、延慶を連ねる外長城線を完全に確保し、かくて京綏線上新保安とも連絡するに至って、所謂、土肥原・秦德純協定線内は殆どその淸掃に成功するに至ったのである。
また、張家口方面より京綏線に沿う地區を大同方面に猛進しつゝあった我が軍は、九月一日午後三時懐安(張家口西南方、京綏線天鎮東方)を、夕刻永嘉堡を、七日には早くも天鎮(京綏線上張家口西南方約八十粁)を確實に占據し、他別にその北方地區にある我が部隊は六日南壕塹(張家口西方約七十粁)を占領したのである。
九月七日天鎮を占領した我が長谷川部隊は更に進撃、八日、陽高(大同東北方約五十粁)を占領、更に十一日には聚樂堡を攻略、十三日にはその先鋒が疾風の如く大同に殺到する哉、敵は脆くも白旗を掲げて降伏、要地大同も案外容易に我が掌中に歸し長谷川部隊は更に大同より南下十四日懐仁を占領したのである。
一方、宣化、懐來攻略後、山西省境へ退却中の敵を疾風の如く追撃中の我が部隊は、十一日夕察哈爾南部の要衝蔚縣を占據、更に敵軍を西北に急追して十二日長驅陽原を占據、蔚縣より一部は更に西方へ省境を突破して山西省廣靈の堅陣に迫った。廣靈の敵は連日の我が猛撃に堪へ兼ね、十三日午前十時過ぎ遂に西方、及び南方へ分れて潰走すれば、我が部隊は直ちに急追し十六日朝山田部隊は西方渾源附近を、粟飯原部隊は東南方淶源附近を各々占據し、遂に敵を察哈爾省内より一掃するに至ったのである。(この間、連日の如く一日十四、五里の強行軍を敢行しつゝ、道無き嶮路を山林檎や生葱を齧りつゝ、進撃した我が軍の苦心は筆紙に盡し難い。)
これより先、九月三日察哈爾省各代表者百名は、午前十時より張家口省政府に會合し、省内自治について協議し、その結果、南京政府より分離獨立し、新政權を樹立する事を決議、新政權を「察南自治政府」と呼ぶことに決定。我が軍の武威、一糸亂れざる軍紀を以てする良民への保護、治安の維持がその基礎となった事は云ふ迄もないが、事此處に到は關東軍の内向指導による事は勿論である。
大同より平地泉まで
山西北部の要地大同を完全に制壓した我が軍は、またもや京綏線を東西に跨がる長城線を突破して北上、一路、平地泉を目掛けて進撃を開始、これに呼應して大同西南方懐仁を占據した長谷川部隊の主力は、快足を利して長城西北線(京綏線の西側地區)に進撃、九月十八日拂曉、左玉(左雲)を攻撃、激戰數刻の後同地を完全に占領、逃走する敵を急追して更に右玉の要害を封鎖した。京綏線上に沿って北上進撃した我が千田、板倉兩部隊は、遂に前面に横たはる長城線を突破して、千田部隊が十七日午後一時、豐鎮を占領し、一方これと呼應する内蒙古軍の西北方よりの進撃に腹背に敵を受けた敵が、凉城(寧遠)方面より殺虎口を經て太原方面へ逃走し來るを、左玉右玉の要害を封鎖し待ち構へた長谷川部隊が迎へ撃つなど、敵の進退全く窮したのである。
廿一日正午、豐鎮方面より裝行列車で更に北上平地泉に迫った駒井部隊は、平地泉南方蘇川驛西方部落で、綏遠騎兵軍約五百と遭遇し、これを撃滅して更に北上、平地泉南方僅か六キロの地點まで迫るや綏遠軍の列車を發見、これに砲撃を加へつゝ急速力を以て進撃したが、線路が破壊されて進撃を阻止された。敵は此の時、一キロの東北高地より我が軍に猛射を浴び來り、遂に駒井部隊長は敵迫撃砲弾の爲、右大腿部を粉碎されて壯烈な戰死を遂げた。これとみた敵は我が壯甲列車の前後左右、手榴彈を浴びせかけたが、廿數倍の敵に對して駒井部隊は全員血達磨となって應戰した。またこの日、京綏線に沿ひ北進中の千田部隊は、午前九時舊平地泉(平地泉南方四キロ)前面の堅壘に處る敵を攻撃、激戰二時間の後にこれを撃退し、遂にその先遣部隊は同十一時廿五分完全にこれを占領し、引續き目指す平地泉への果敢なる攻撃を續けたのであった。
またこの日、京綏線より南下山西省境に敵を追撃した山田、長野兩部隊は省境東へ進撃して淶源に進出し、粟飯原、大場兩部隊は靈邱を占領して平地泉に迫った千田部隊と共に、察哈爾、河北、山西省境に跨る、内外長城線に於て作戰の妙味を發揮したのであった。
流石に平地泉の敵は頑強だったが、廿四日午前八時十一分陸の荒鷲は、平地泉の要所及び鐵路を猛爆敵列車の退路を遮斷、同時に村澤、一ノ宮兩部隊は停車場の敵裝甲列車、客貨車十數輛を鹵獲、綏遠軍(傳作儀麾下)五百名を捕虜として武裝解除、之と呼應して進撃せる千田部隊は午前九時五分平地泉を遂に完全に占領して南門より堂々入城。東北方より進撃した板倉部隊も内蒙古軍騎兵隊の活躍により北方の敵の退路を遮斷しつゝ、午前九時廿分、内蒙古軍と共に北門から入城、引續き各部隊協力して城内敗殘兵を完全に掃蕩し、かくして綏遠軍が不落の要害と恃んだ平地泉の堅城も、陶山山脈を越えて奇襲南下したる皇軍の猛襲下に總攻撃開始以来六時間にして陥落し去った。なほこの日、我が山田、長野、大場各部隊は平型、開口附近の長城線を確保したのである。
〔大同附近の人情〕
こゝで再び大同の説明に戻らう。大同驛は、市街の北方二哩ばかりの地點に在り、従來夜分に到着すると甚だ不便であったが、事變後蒙疆汽車公司(支那語の汽車チイ・チョウは日本語の自動車、汽車は火車フオ・チョウといふ)が城内大通りを經て驛まで定期バスを經營してゐる。城門までは十錢、中央部までは二十錢位だと記憶する。
大同の城壁は、この地方では北京に次ぐ見もので、高さ五丈餘、長城式の作りで、所謂、磚(チュワン)を重ね上げた立派なものだ。城門の部分は内外二重になってゐる。人口は約三萬、戸數は一萬に足るまい。大體が政治都市であるから、昔の綏靖公署や縣公署など立派な建物はあるが、商業的にはあまり目立たない。馬路(大通り)も張家口を見た眼には比較的寂しく感ぜられる。今日では晉北自治政府の所在地として有名になった。
大同名物は果實、羊、駱駝、毛皮、石炭と案内紀に在るが、京綏鐵道沿線随一の美人の産地であることも覺えてゐてほしい。しかも纏足の最も小さい美人のゐる處として有名なので、民國以來『天足令』を出してこの弊風を禁じたが、今でも此の地の美人は極端に足が小さい。
古い本を見ると、大同の人柄を述べて『質直朴野』(漢志)だとか、『淳厚』(地輿綜要)だとか、大分褒めてあるが、同時にこれは始末屋にも通ずると見えて、『此の地は磽薄で寒いため、豐年でも収穫が十分でない。従って住民の食事は一日僅か二回、俗多く儉嗇にして、恒に蟋蟀の風在り』(郡志)といふやうなことも書いてある。蟋蟀が胡瓜を嘗めることを指すのか、どうかは判らないが、とにかく、山西人(特に大同人)といへば、はゝんー始末屋だなといふ事になってゐて、支那人同士で有名なのだから恐れ入る。外省に出て貯蓄しないで歸る者はないといはれる。
物産の石炭は盆地の西北山地を中心に産し、一般に大同炭田と呼び、一億數千萬噸の埋藏量があると傳へられる。今後遠からずして大々的に開発されるだらう。大同居住の邦人は千名に近く、日本料理屋や旅館など、二十數軒を數へ、汁粉屋まで出來てゐる。石炭開發の進むにつれ、將來の經済的發展の期待される町だ。
〔雲崗(ユン・カン)の石佛〕
大同附近で是非一見しなければならない名勝古蹟としては、まづ雲崗の石佛に指を屈しなければなるまい。石佛寺大同府の郊外、西北方約十二キロ、雲崗、一に武州塞(ウー・チォウ・チャイ)といふ一寒村にある。
大同府の西門を出て、荒壌の畑地を三、四キロも住くと前方に小高い丘が見える。丘の北麓を巡るころから廣い街道は段々狭くなって、或は上り、或は下がる。四、五キロのところからは武州川の流れに沿うて遡る。山西省は長く閻錫山のモンロー主義に固められてゐたヾけに、武州川の改修工事なども思ったより出來てゐると、感心するのも束の間の事で、雲崗の手前四キロ位まで來ると橋も無いこの川を渡渉しなければならぬ。尤もこの邊は普通ならば飛び石傳ひに流れる程度の淺瀬である。川を渡ると道は素晴らしく良くなる。坦々たる大道を住くこと暫し、やがて前方右手に小高い丘陵が現はれ、その麓にこんもりとした楊柳の林が黄色の土に美しい對象をなしてゐる。これが石佛寺のある雲崗の部落で、丘陵の腹部に石佛が彫り込まれてあるのだ。
元來支那には各地に有名な石窟が十九あり、中でも山西省太原に近い天龍山(ティェン・ルン・シャン)と河南省洛陽(ロウ・ヤン)南方の龍門(ルン・メン)の石窟、これに雲崗を加へて三大石窟と言はれ、西方遠く甘肅省の北端にもフランスのペリオ等の發見した敦煌(トウン・ホワン)の千佛洞(チェン・フォト・ウン)などが聞こえてゐる。併し、この雲崗石窟は我が伊東忠太博士が世界に始めて紹介した點でも特に日本人に親しまれ、また視察見學にも距離が近く比較的便利なため廣く人口に膾炙されてゐる。
尤も便利とはいへ、相對的な比較に過ぎず、大同から見物に行くのは従來必ずしも便宜が圖られてゐたわけではない。數年前の經驗では、旅店で馬か驢馬を借りるか、若しくは人力車に乘ったのであるが、一圓五十錢内外の費用を要し、人力車の場合は處々で降りて歩かねばならなぬ箇所がある。今後は秩序回復と共に觀光客も激増するであらうから、乘合バス等が出來て、費用もかゝらず、樂に日歸り出來るやうになると思ふ。
石窟は東西に長く、南面は高さ三十メートルばかりの素燒色をした斷崖で、その壁面に蜂の巣のやうに開鑿されてゐる。大體、巖壁の形勢から三つに區分することができ、その各々が小さい谷を以て界とする。
第一區、東方に在るもので、これは東西兩端に二窟づつ、すなはち第一窟から第四窟まで、四つの洞窟がある。
第二區、中央部に在るもので、現在石佛寺の境内にあり、こゝからは第五窟から第十三窟迄重要な石窟が九つある。第五窟と第六窟の前面には庇を附けたやうに大規模の四層樓があり、第七窟の前には三層樓が作られてある。
第三區、西寄りのもので、第十四窟より第二十窟に到る七窟。この内第十九窟は左右に脇佛龕を連ね、第二十窟は前面が崩れ、今では大尊佛が露出してゐて、遠くからでも望見することが出くる。第二十窟の西方には、更に幾百とも知れぬ大小の石窟が穿たれてゐる。
第一區のうちで最も壯大なのは、第三窟の隋大佛洞である。この本尊は、相貌雄偉、姿勢整齊、衣紋の線條は流暢遵勁を極め、殆ど丸彫に近く、約十メートルの高さが在る。この佛像は惜むらくは未完成のものであるが、彫刻様式から見て、他の佛像と異なり、隋代の作品、特に有名な煬帝(在位世紀六〇五~六一六)が父母供養のために建立し、工事中途にして國滅びたのではないかと想像される。
全石窟の中心をなすのは、第二區の第五窟で世界に比類の無い雄大な作品と讃嘆されるものである。この第五窟は東西徑二十二メートル、南北十八メートル、内部の本尊は十八メートルの釈迦坐像で、面相は雄偉寛容の氣宇、詣づる者をして思はず襟を正さしめる傑作である。これは北魏の孝文帝(在位世紀四七一~四九九)が父の爲に造ったものと言はれ、その宏麗なること北魏藝術の絶頂であり、支那石窟中の白眉といふも過言ではない。第六窟また孝文帝の造營と傳へられ、窟の周圍には層々佛龕を列刻し、驚嘆すべき意匠の豐富と技巧の精麗を備へてゐる。
第三區石窟中規模の最も大なるものは第十九窟で本尊の高さ十三メートル半、孝文帝よりは二代以前、文成帝(在位世紀四五四~四六五)の時代の作である。第二十窟も同様であるが、これは前述の如く本尊が露出し、膝から下は埋没してゐる。高さは十メートルである。
以上のやうに、雲崗の石佛は一部を除いて大部分北魏朝の作(北魏文成帝の和平元年ー世紀四六〇年に僧曇曜の建白に依て開鑿したもの)であるが、當時絢爛と咲亂れた佛教藝術の粹とも偁すべく、殊に佛教東漸の潮流を受けて、敦煌の石窟の影響大なりといはれ、西域の様式を著しく傳へてゐる。印度・トルキスタンの文化が支那化するに至った一つの徑路を示すものとして文化史上殊に珍重される所以である。
最後にこの北魏といふのは、世紀三八六年より同五三三年まで十一代百四十九年に亘り、今日の山東、河北、察哈爾、山西、寧夏一帶に威を振った鮮卑の王朝で、今日の蒙古族の祖先をなすものといはれる。その都を今日の大同に奠め、これを平城と偁してゐた。
厚和(ホウ・ホー)と其の附近
大同を出た列車は御河(ユイ・ホウ)に沿って北上し、間もなく盆地を出て、得勝堡(トウ・ション・パアオ)に於て萬里長城を越える。たゞこの邊の長城は破壊甚しく注意してゐないと城趾が判らない。長城を越えると愈々舊綏遠省、今日の蒙古聯盟自治政府の版圖に入る。間もなく停車する一大驛は蒙古聯盟地區東部の重要都市、豐鎮(フォン・チオン)だ。人口一萬ばかり、附近農産物の集散地として名高い。
車窓の景色はこの邊から大浪のやうな稍高の小さい丘陵の連なり、所謂、蒙古的な特色を帶て來る。勾配は稍上り氣味だ。大同を出發して四時間ばかり、京綏鐵道が直角に西に折れようとする曲がり角に、平地泉(ピン・ティク・エイ)の町が姿を現はす。戸數約九千、人口三萬ばかりの新開地で、豐鎮と同じやうな農産物集散地である。たゞ平地泉の方は一層北に在り、且つ蒙古地帶の植民部落から集まるせいか、よけい朔北の町といった感じが強い。
昭和十一年冬、德王が時の綏遠省主席、傳作魏の蒙古人壓迫の罪を鳴らして擧兵した時、この平地泉は支那軍の前線根據となったところで、當時天津大公報の名記者長江が名筆を振って、この地を出發して蒙地に向ふ支那軍の情報を手に取る如く描いてゐた。
町そのものは臺地上に位する平凡な新開地で、記すほどのことは無いが。この邊りは皇軍奮戰の地であったことは前に述べた通りである。汽車はこれからまっしぐらに包頭さして西進する。左手は圓丘の連續、右手は比較的平坦だが十キロばかり向ふには名代の陰山々脈が、汽車の進かぎり相連なる。さほど高くはなく、關東の筑波山程度に思はれるが、これぞ蒙古高原と沿線地區を分つ障壁で、山の彼方はそのまゝ低下せずして大蒙古高原に續いてゐる。南側の山麓と山頂とでは、冬季十度位は温度を異にする。その南麓が恰も水に侵食されたかのやうに切り立ってゐるのは、或は往昔、黄河の水に洗はれたのではなかろうか。若しくはこの邊は黄河の續く湖盆であったかも知れぬ。
十八臺(シイ・パア・タイ)卓資山(チョッウ・シ・ヤン)三道營(サン・タオ・イン)旗下營(チイ・シイヤ・イン)白塔(パイ・タア)と、汽車は皇軍の進撃路に沿って西進する。處々にトーチカの跡が見えて、遊子の襟を正さしめる。此處で當時の戰闘を偲ぶことは一層意義ある事である。しかして綏遠、包頭占領を以て、京綏沿線の戰闘を結びとしたい。
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