(戦跡の栞(9)

 次に北京とその附近の史蹟、名勝を前の記述と多少重複するが簡單に述べて置かう。

〔宮城〕
 いはゆる内城の中央に在って別に一廓を築いてゐるのが卽ち是である。その城廓は正方形で、甃磚黄色に塗られ、四面に城門を設けてあるが、南面にあるのが正門で、天安門と偁す。東なる東安門、西なる西安門、北なる地安門(俗偁後門)と偁してゐる。而して南面のみは特に外廓を設けて一門を開き、是よりして内城の正陽門に直達するのである。
 宮城の南隅には南華園があり、西部には西苑がある。苑中南より北に横はる「大液池」(北海、中海及南海)波光澄碧にして、池中靑螺の如き瓊島の艷麗は最も鮮やかである。「瀛臺」の勝はその南方にあり、鬱蒼として翠綠正に滴るらんとするの風趣を添へ、地上九竅を有する石橋が恰も虹の如く横たはって、風致極めて幽邃閑雅である。又北に「景山」があり、山頭五峰」に岐て各亭が設けられてあり、一度登臨すれば、滿都の風光歷然として一眸の中に収むることが出来る。
〔紫禁城〕
  觀覽希望者は先づ東華門又はは四華門の售票門に行って、三十仙の入門料を支拂へば城内に入ることが出來る。宮城の内部中央より南東に偏したる處に、更に一廓を爲すもの、是卽ち紫禁城で、内裏宮殿の在る處、牆壁は南北に短く東西に長き方形の建物は宮城の廓壁と同じく黄色瓦を以て葺き、周圍には四門がある。南方は正門でこれを午門と言ひ、東方を東華門、西方を西華門、北方を神武門といふ。若し夫れ紫禁城内に就いて、典籍所載する所の一端を舉ぐれば、「その午門の内面には太和門(現承運門)門前には内金水橋あり。正中の殿を太和殿(現承運殿)と偁し元旦、萬壽節その他大朝會、讌饗殿試等に際し皇上の出御せられし處なりと。その北に中和殿(現體元殿)あり、祭祀に當って祝詞奏聞の處である。中和殿の後に保和殿(現健極殿)があり、毎歳除夜に外藩の使臣を饗應せられし處、更にその後に乾淸門がある。門内の乾淸宮は親王に宴を賜ひ、大官を引見せられし處、又その北に寶爾を藏する文泰殿あり、更にその北に坤寧宮あり西太后の便殿たりし處だと云はれてゐる。光緒帝及皇后の便殿たりし養心殿は瓊園門外に在る。その他文華殿、武英殿、傳心殿等の大宮殿その周圍に甍を竝べ結構輪奐の美を極めてゐる。
〔武英殿及文華殿〕
 紫禁城觀覧者は別に一弗を投じて入觀券購へば兩殿内の陳列品を觀賞することが出来る。武英殿は西華門内、文華殿は東華門内に在って、太和門(現承運門)の兩側に相對してゐる。前者は國寶陳列所で周代以來の銅器を首め、各朝の陶器、漆器、寶玉、黄金細工等多數陳列せられてゐるが、就中康煕、乾隆時代の蒐集、制作に係る古い珍重寶がその大部分を占め、觀者をして低徊願望去る能はざらしめるものがある。此等は皆淸朝の御物で、熱河、奉天の兩離宮に珍藏せられてゐたものであると云はれてゐる。武英殿の西側には浴德殿と偁せらるゝ小浴殿がある。紀念日、祝日等には一般人の縦纜を許してゐる。該浴殿の内部は白色煉瓦を以て作られ、純土耳古式浴場で、往古乾隆帝がその寵妾のため營造せしめたと傳へられてゐる。次に文華殿は支那各朝の有名なる書畫を陳列してあるが、漢人の外、満蒙人勞作に成れる畫もあり、畫は比較的尠いが孰れも有識者の興味を惹くに充分である。
〔景山〕
一名煤山と偁し、元の代、租都を北京に定めた時、築城に先ち北京包圍の危機に際し燃料の不足を豫想して石炭を山積し、之を蔽ふに土壌を以てし、更に樹木を移植して、萬歳山と偁したものだとの事である。明末李自成の北京を侵した時、莊烈帝は痛憤して此處に悲惨の最後を遂げたのであった。而も其の山容は今尚ほ舊に依て蒼水參差としてゐる。この史實と相照らし、うたゝ感慨深いものである。
〔中央公園〕
 天安門の西側に在って、元の社稷壇である。(入場料十仙)民國四年先農壇と共に公園地に指定せられたのである。目下園内には運動場、餐館、茶社、球房等の娯楽機關がある。先づ入口より音楽堂前を通り、北に折れるも老柏鬱蒼として、別天地の感がする。軈て廣闊な一廓の門内に入れば、社稷壇があり、その壯大なる建物も往時の森嚴を語るに相應しく、今は遊覽者の攀登に任せてゐる。又附近には牡丹園があり、花時ともなれば遊覽者が多い。壇後亦老柏繁茂し幽静雅趣に富み、濠を隔てゝ宮城と相對してゐる。將來設備完成せば、市内第一の大公園となるであらう。
〔觀象臺〕
  内城の南東角北樓側に在って、城牆より高き事こと更に十尺餘、元の至元十六年(世紀一二七九年)の建設に係り、臺上には元朝の飮天監郭守敬の制作に成れる渾天儀、銅球、量天尺等の諸器がある事は前述の通りである。
〔隆福寺〕
 内城の東牌樓の西北に在る。明代の建立で、その當時は壯觀目を驚かすものがあったと云ふが、今は大半焼失或は頽破してしまってゐる。毎月陰暦九、十の日に廟市が開かれ玩珍器或は、花卉、日用品等の賣店が多く出る。
〔精忠廟〕
 (觀覽料五十仙)内城に於ける著名の喇嘛寺で、淸の世宗雍正帝(世紀一七二三ー三五年)が其の潜邸を喜捨して、此の靈場を置いたので此の名がある。宮は安定門北新橋の東北栢林寺の西に在って、第一門を昭泰門、中門を雍和門と偁し、之を入れば内に雍和宮、永佑殿、法輪殿がある。今は多少頽廢はしてゐるが、黄瓦紅壁輪奐の美尚ほ觀るべきものがある。之を一覽すれば、正に西藏蒙古式に粉飾せられた佛寺を髣髴せしめて、兼ねて親五府の結構を窮知する事が出來る。現在喇嘛僧約三百、圓頂黄衣の偉大漢が日夕勤經に勵めてゐるのも殊勝である。
〔孔子廟〕
 一名文廟と称し、北京内城安定門の東南、崇教坊賢街にある。境内には千秋の古柏偃蓋して雲梯を払ひ、森々たる綠葉霜雪に傲るものがあって、自ら人をして襟を正さしめる。廟の正門を先師廟門と言ひ、その通用門を持教門と偁して廟廓の西門に設けられてゐる。その門内には元朝以来登第した幾多の進士顯名の碑がある。進んで大成門に至れば左右に石鼓各五個を配置してある大成門と相對する南向の大堂宇は、卽ち大木成門でその前面内庭に鬱蒼たる老柏樹は元朝國子、監祭酒許衡の手植えに係り、卽に六百餘年の星霜を經過したものだといふ。大成殿と大木成門とを連ねた東西兩廡の中には歷朝帝王の先賢を縱祀し、庭内老柏の間には淸朝歷代帝王の撰修に係る幾多の碑亭がある。大成殿には民國三年重修飾せられ結構極めて壯麗である。殿内には質素な三個の大香爐と祭机とを備へ、正面に至聖先師孔子の神位を奉安し左右に四聖(顔子、子思子、曾子、孟子)十哲(閩子、冉子、端本子、仲子、有子、再子求、再子雍、言子、卜子、顓孫子)の神位を配祀し、又楣間には淸朝康煕帝以下、歴代皇帝の勅獻に係る扁額がある。再び大成門に至れば門内左右に威儀の表徴たる各十二の戟を備へ之と相竝んで周代の遺物たる眞正の石鼓左右五個を配してある。
〔國子監〕
 孔子廟の西隣に在って、支那の舊大學である。元、明以来數百年間の最高學府として、天下俊秀の淵叢たりし處、輓近新學の勃興に連れて、國立大學が別に創設せられたので、今は唯歷史博物館として保存されてゐる。先づ其の外廓に集賢、大學の二門があり、門内には大學堂、彜倫堂がある。堂の正面に「大學」の二字を刻した石標は康煕帝の御筆なりと傳へられてゐる。其の他堂の内外には歷代皇帝宸筆の扁額、碑碣等が多く、又邸内には石製の日時計がある。更に東西兩廡には率性、誠心、崇心、修道、正義、廣業の六堂があって、堂内には漢代石經の制に倣ひ、乾隆帝の勅建に係る十三經も立ってゐる。四邊の光量は、寂寥ではあるが、又騒客の史的感興を唆るに足るものがある。
〔鼓樓〕
 宮城後門の正北部にあって、元の世租(忽必烈)の建設に係り、當時政樓と偁した。明代(世紀一四二〇年)大修理を加へ、淸朝に至っても逐次修理を施したものである。樓址は長さ約一六八尺、幅員約一一二尺、樓の全高約百尺、卽ち城壁より高きこと六十五尺餘で、磚瓦、巨石及木材を用ひて造られた堅牢巨大の建物である。樓下の門扉を潜り、石階六十九級を登れば宮城の内外を一眸にの下に蒐めて、遐邇の眺望を擅にすることが出來る。初め樓上に銅製の刻漏四個を置いて、時刻を測ったといはれるがその製法極めて精妙で、古代時針儀の一種として珍重されたが、明末の火災で焼失したと云ふ。鼓樓上には従来二十四鼓を備へ一年を二十四節に分ち、一節一鼓を用ふるの制であったが、北淸事變の際その多くは破壊せられた。そして今は、經約六尺の太鼓一個、約三尺五寸の小鼓二個を備へ、毎時八時及正子の刻に、百八聲を打って市街夜警の合圖となしてゐる。元來此の鼓樓は鐘樓戸等しく淸朝歷代宮内官廳の一たる鑾儀衞に直屬してゐて、國家事變の際急を告げる警報機関となったもので、平時は城内夜警の司令塔となったものである。その規模の宏大なるは、今尚ほ城中の一偉觀である。
〔鐘樓〕
 鼓鼓の北約百歩の所に相對して鐘樓がある。これ亦元の世租の創設に係ると云はれてゐるが、その地趾は詳ではない。その後期の永樂十八年(世紀一二二〇年)卽ち北京遷都の前年に至り元の遺制に倣って再造せられたが、これ又火災の爲灰燼に歸した。現存のものは淸朝乾隆十二年の築造に係り、樓上の巨大鐘は明代の遺物で、永樂年月吉日製の銘がある。建築の規模は前記鼓樓に比しやや小さいが、石階八十段、樓上を環らすに石廓を以てし、頗る雅致に富んでいる。
〔護國寺〕
  德勝門内大街の西、發祥坊に在る。元の宰相托克托の故宅地と傳へられ、當初壯大な伽藍があったが、今はその殘影を止むるに過ぎない。毎月陰磿七、八の日を以て廟市が開かれ、前記隆福寺についで名がある。
〔天壇〕
 外城永定門内の東、正陽門大街路を隔てゝ先農壇と相對してゐる。觀覽希望者は公使館經由外交部に申請して、入觀券を入手しなければならぬ。天壇は明朝永樂十八年(世紀一四二〇年)の創設に係り、天子親しく皇天上帝を奉祀せらるゝ祭壇で、周圍約三哩の廓壁を繞らし、廓内更に塀を築いて濟宮、圜丘、皇乾殿、祈年殿等が設けられてある。何人も先づその規模の宏大なのに一驚を吃するであらう。
〔齋宮〕
 左右二門を有して、内外二重の高牆を繞らし、外牆は約一二四〇尺、環らすに深濠を以てしてゐる。牆に沿うて一六三〇尺の廻廓があり、内牆は方約九八二尺、その内外兩牆の中間は皇帝が齋宮に在るの日、禁衞兵の屯であったといふ。内牆の中央東面してゐる殿堂は卽ち齋宮で、その正殿に玉座がある。階前の左方に石亭、右方に石碑及石亭各一つが設けられてある。皇帝は、ここで祭服に更へられたものである。
〔圜丘〕
 天壇の主體で、其の形圓く天に象れるが故に此の偁がある。壇は總て白色大理石を以て上中下三層に疊み上げ、各層の周圍及四方階段の兩側に勾欄を付してある。下層直徑二百十尺、高さ五尺、中層直徑九十尺、高さ五尺五寸で上層の中央に皇穹宇がある。圓塔形の木造建物で毎年冬至の日出前、皇帝躬ら三拜九拜して親祭を行はせられところである。
〔皇乾宮〕
 天壇の北門外に在る。瑠璃色瓦を以て蔽はれ、殿側には四十七間の長廊がある。又正殿には皇天上帝及歷代皇帝の神位、天地、風雷、雲雨等の諸神位を奉安し、天壇親祭の際には此等諸神位を此處より壇上の皇穹宇に奉遷するを例とした。又殿側の長廊は、祭時雨雪の際爼豆及祭器を収める處で、外人の参觀を許される。
〔祈念殿〕
 皇乾殿の正南數歩に聳ゆる高殿が卽ち是れである。三級の段上に築かれた、高壯の大殿堂で、歷代皇帝の五穀豐穣を祈られた處で、祭神は天壇と同じく皇天上帝で、兼ねて歷代皇帝を配祀してある、因に天壇の境内、樹木芝生の間に龍鬚菜と偁する植物がある。其の形が薔薇に似て夏時多く生ずる。風味頗る美しく、俗偁天壇菜と呼び、文人雅客爭うて之を賞味すると言うふ、又天壇の井泉は甚だ甘くて毫も鹹味がない。
〔先農壇〕
 外城永定門内天壇の西にある。四圍に垣牆を繞らしてあるのは天壇に同じく、その廓内には先農壇の外に方形で、南向きに造られ、その東南に觀耕臺があり、前面は耕田である。又天神地祗二壇は、先農壇の垣外に重垣を繞らして東西に建てられ、太歳壇はその東北にある。民國四年之を公園地に指定し、目下その施設に忙しい。朝陽門外の日壇、阜成門外の月壇、安定門外の地壇、並に前記二壇を併偁して北京五壇と言ふ。
〔陶然亭〕
 右安門内東北に在る。或は遼金の創建だと言ひ、或は淸朝康煕年間の重修に係るとも傳へられてゐる。冬季蘆花の候、此處に登臨すると一望一白淸趣饒である。
 
 

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