戰蹟の栞(93)
盧山占領
瑞昌攻略部隊の西進と同時に、八月初めより盧山西方地區に集結せる約十萬の敵に攻撃を開始した我が飯野、園田、木島、池田、宇賀、茶村の各部隊は、盧山西南方の天嶮南潯鐵路西方馬鞍山を中心とする丘陵陣地に據る敵に對して主攻撃を集中、連日百三十度に上る苦熱と戰ひ、或は猛烈を極めるマラリヤその他の惡疫に悩まされつゝ、全戰線に亙って進撃を續け、沙帽山、黄大脳、范家山等に據る頑敵を撃破して、一路敵を南方に壓迫八月二十日頃までには概ね金家山尖山の線に進出した。
敵は九江戰の敗殘兵を、盧山、馬廻嶺を連ねる山岳陣地に集結すべく、南昌、德安より多數の督戰隊を動員して自軍の潰走を督戰した。敗走の支那軍は前後よりする猛攻撃に狼狽しつゝも漸くにして、一帶の山岳に踏み止まり、その數約二十萬と偁せられた。更に八月二十日頃からは德安方面よりする增援隊を加へて、兵力は逐次增加した。
我が攻撃軍はこれ等の敵を包圍して此處に壯烈なる大殲滅戰を敢行すべく、盧山西麓より進撃しつゝある正面軍の外に、星子を占領した飯塚、池田、福井、鳥海、山田、八隅、大島の各部隊を以て盧山東麓より前進せしめつゝあった。この盧山東麓進撃各部隊は、二十五、六日頃より行動を起し、進路を南にとって前進、先づ一宇山の天嶮による敵の攻撃を開始した。敵は野砲、迫撃砲を以て防戰に努めたが我が進撃物凄く、各部隊は九月一日未明を期して總攻撃に移り、同日午前八時三十分これを占領した。
次いで盧山山系の一峰として天然の要害を誇る東孤嶺方面に向かった主力部隊は一日拂曉を期して總攻撃を開始したが、該方面一帶は一連の岩山にして、恰も山西省太原附近に似た岩峰懸崖十重二十重に連なり、加ふるに各所の岩山には迫撃砲、機關樹陣地が構築しある爲、我が軍の苦心一方ならず、岩壁を攀ぢ登り、溪谷に伏せて猛撃を續けること約三十時間、さしもの堅壘も肉彈に封ぜられ、九月二日午前十時遂に陥落した。
〔嗚呼!飯塚部隊長〕
飯塚部隊は一宇山より香盧峰の絶壁を攀ぢ登り、別働隊の東孤嶺占領に呼應して前進、又前進。盧山連峰最南端秀峰寺の東方高地より猛烈なる抵抗を試みる敵の大部隊に對し、峰連山に鋭い攻撃を加へつゝあった。豪膽な飯塚部隊長は例によって、部隊本部を最前線に置いて、自ら戰況を一望に見得る高地に立って指揮してゐたが、前面高地の一角に在って我が進撃を阻止しつゝある敵の機關銃陣地を發見、部下をかへり見て該陣地の突破を命令した瞬間、飛び來った敵彈の爲に右胸部を射貫かれ盧山の岩山を朱に染めて壯烈極まりなき戰死を遂げた。時に三日午後一時二十五分、部隊長の戰死を傳へ聴いた全部隊の將兵は、部隊長の仇思ひ知れと計り涙を振って應戰、敵陣地に突撃、恨み重なる秀峰寺高地を奪取した。
盧山東麓方面の戰況が逐次我が軍に有利に展開しつゝある一方、西麓より進撃した部隊は、八月末までに全線に亙って攻撃準備を完了。九月一日には飯野部隊の猛攻奏功し、范家山一帶の敵陣地を粉砕突破。盧山西方地區中最も嶮峻を誇った馬鞍山を中心とする、鷄公嶺、尖山も亦夫々我が軍の占領するところとなったが、更に瑞昌占領後進路を南にとって、盧山方面の大包圍戰に参加した寺垣、藤岡、太田等の部隊は、一日馬鞍山に連なる岷山々系の頑敵を一掃、次いで強行軍を以て河裡餘村及び曹家坂を陥れたので、此處に盧山西南方山岳地帶に據る敵約十餘萬は、全く退路を遮斷されるに至り、二日夜來敵は總退却を開始したので不落を誇る盧山の天嶮も遂に我が軍の占領するところとなった。
盧山は支那に於ける有名な避暑地であって、蔣介石をはじめ國民政府の要人或は諸外國人の別莊が多い。支那側はこの國際色濃厚なる地帶に我が軍を誘導して、あはよくば國際紛爭を惹起せしめんとの卑劣なる作戰を劃策しつゝあったが、東西兩面より挟撃した我が作戰の巧妙さにその奸計は小氣味よく碎かれた。
本戰鬪に於て盧山の草を血雨に染めた我が軍の戰績は永く戰史に記さるべきもので、飯塚部隊長を初め、田中、茶村、上田の各部隊長以下、幾多の英靈が護國の鬼と化したことを思へば、その尊き犠牲と輝かしき戰果とは、永く人々の胸裡を去らないであらう。
〔馬廻嶺占領〕
盧山の天嶮を占領した我が軍は、敵の總退却を知るや直ちに追撃戰に移った。戰局の急展開に狼狽した敵は、忽ち全軍雪崩れを打って德安街道に向い、道と云はず、算を亂して敗走する敵は、我が砲兵の好目標となり、また陸海軍の荒鷲は好き餌物と計、對地射撃に爆撃に、文字通りの殲滅戰を演じた。殊に三日午後五時〇〇基地を飛び出した前島、田中、下村、釘宮、木村の陸軍機は、中支の空を壓する大編隊群を以て、南潯鐵路上空を南下、地上部隊の猛追撃と相呼應して馬廻嶺方面に敗走する敵を追ひ、その頭上に一齊に巨彈の雨を降らせ、次いで機銃を掃射して敵の大軍を次々に屠り、盧山々系一帶は完全にその機翼に制壓された。
當時、敵は武漢防衞の主力部隊を南潯鐵道の要衝德安を中心に集結しつゝあって、その兵力は張發奎の率ゐる二十個師に上り、必死に防禦に當ってゐたが、更に東部江西省方面より顧祝同軍も續々同地に增援しつゝあり、兵力に於て我に數倍するの状況にあった。加ふるに蔣介石は共産黨の執拗なる監視によって、直系中央軍の精鋭を安全地帶にのみ配置することが不可能となり、一部直系軍をこの方面の防衞に充て、また武漢陥落後の落ち行く先を
衡陽と定めてゐた際でもあったので、後方に控へた督戰隊の第一線督戰ぶりは正に死物狂ひの觀あり。我が猛攻撃と督戰隊とに挟撃された支那軍の損害は數萬と算せられた。
盧山一帶の連峰より退却した敵を追撃中の園田、飯野、木島、市川の各部隊は、三日早朝より敗走する敵軍の後尾に附して、南潯線を南下、約七里餘の道を晝食も攝らず、所々に出没する當面の敵を撃破しつゝ盧山々麓を縫って強行軍を續けてゐたが先鋒の飯野部隊は同日午後五時半一氣に馬廻嶺に突入、相前後して丸山部隊も馬廻嶺に入り、此處に記録的殲滅戰は大成功裡に完了した。
盧山より馬廻嶺まで、猛攻撃と急追撃に終始した大包圍戰に於て、盧山々系一帶の敵陣地はもとより、山間の通路、山腹の到る處、敵兵の死體累々として横たはり、鮮血は道に溢れ文字通り屍山血河を現出して凄惨を極めた。就中馬廻嶺西方三キロの地點に於ける大殲滅戰は、隘路を通過して敗走し來る敵に對して、我が砲兵は一齊に砲列を布いて猛射を浴せかけ、全彈敵の密集部隊を吹き飛ばして特筆すべき効果を収めた。
馬廻嶺は盧山々系中、德安前面に於ける最大の要害として敵が鞏固なる陣地を構築しあった地點で、該地の占領までには相當の激戰が豫想されてゐたのであるが、盧山西南地區に於ける我が猛攻撃に、堪り兼ねた敵の總退却を利用した我が軍の作戰はまことに巧妙を極め、敵をして遂に馬廻嶺の陣地に止まるを得ざらしめたものであって、追撃戰の妙味を充分に發揮したものと云ふべきであらう。この包圍戰が飯塚部隊長その他の星子占領によって極めて有利に遂行されたことも記憶さるべきである。
〔九江(キゥ・キャン)〕
九江は上海から揚子江を遡ること四四五浬、漢口より一七五浬。南潯鐵道によりて江西省城南昌に連り、揚子江中流の要地である。古代は同地を潯陽と偁しまた江州とも呼んだ。市街は城内、城外及び英國租界の三區に分れ、人口十數萬。城壁は周圍約五哩であるが、近年蔣介石が江西省の共産軍を討伐するため南昌に「行營」を設け、同地が實質的に國民政府の軍事はもとより政治の中心をなしたため、九江もその影響を受けて遽かに發展し、城外に向って市街は膨張した。市街は、北は長江に沿ひ、東には丘陵連なり、また南は甘棠湖を隔てゝ盧山の秀峰を負ひ、西は支那人街を介して英國租界に連なるところ附近の風景も見るべきものが有る。
城内は往年長髪賊の亂に累せられ甚だしく荒廢せるも尚二、三の寺院古塔等の見るべきものが有る。西門外の支那人街は區域狭隘で、人口稠密、各種の店舗櫛比し、その西端は租界の背後を扼し、龍開河の新開地及び南潯鐵道の、九江停車場に通じてゐる。
英國租界は約三萬坪で、規模は小さい乍ら揚子江岸に展開して諸般の設備整ひ、日本領事館、英國領事館、税關、各國汽船會社等あり近代的な色彩を帶てゐる。同地には事變前まで邦人經營の大元洋行ばあって旅館を經營してゐた。
九江は所謂「九江燒」と偁して陶磁器の名産地である。九江より鄱陽湖を隔てた東方景德鎭は古來陶磁器の産地として有名なるところで、近年は南昌、九江等に於ても、科學的に陶磁器を大量生産することに努めたため、その發達は見るべきものが有った。
名所古跡としては琵琶亭、紫桑栗里等がある。琵琶亭(ピーパーティン)は龍開河口にあり、有名なる唐朝の詩人白居易が「琵琶行」を詠ひし處。その後此處に亭を建てゝ琵琶亭と偁したが、今は荒廢して宣花宮なる一小廟が殘ってゐる丈である。紫桑栗里(ツーサヌリーリー)は城壁の南西側の地に在り、晋の文豪陶淵明の居址として知られてゐる。その他城外には、蔣介石が共産軍討伐の頃、捕虜となった男女共産黨員十萬を収容して訓練せしめた「感化院」と云ふ、一大兵營式のものを建てゝゐた。
九江には支那事變發生後南昌と共に蔣政權の重要根據地の一つであったため、我が海軍航空部隊は同地の飛行場及び軍事諸施設に對しては屢々爆撃を加へたところである。九江は事變前までは我が揚子江航行の日淸汽船を始め各国汽船が同地に寄港し、また中國航空公司の定期飛行機が同地に着水したところだ。
次に石井勝視氏の麗筆により皇軍入城後の九江を點描しやう。
九江の街は皇軍入城以來惡疫も黄塵も漸次驅逐淸掃され「武蔵野橋」や「愛民橋」が出來、電話が架設された。颯爽たる皇軍を中軸として着々と生まれ變って新しい息が廢墟の中から通ひ始める。敵の謀略による數百箇のコレラ井戸も、すっかり汲みかへられて新しい淸水が懇々と湧くやうに、新鮮な力が漲って來る。
尤もまだ完全に勿論蘇へったのではないが、市街の中央銀座通り太中路は空家の連續、ところどころには抗日の惡夢を語る土嚢のトーチカが散在し、市外の空家には既に半ば白骨化した死體もある。氣をつけて見ると藥莢が到る處不氣味に土中から踏みにぢられて顔を出し、處によっては敵の仕掛けた手榴彈や地雷が在ると云ふ。彈丸こそ飛來しないが戰場の續きである。
景勝の地、この九江、武漢よりは遙かに暑いが風が吹き、傳統を誇る陶器、麻、茶など物資豐かな九江の今や東洋史の新しい頁が開かれんとして生みの苦悩が展開されてゐるのだ。
〔盧山(ルー・シャン)〕
九江の西南方に當り、巍峨として聳ゆる秀峰が盧山である。古來山東省の泰山と並偁せらるゝ支那名山の一で、九江の西南約十三哩の地點で、揚子江と鄱陽湖との中間に蟠踞する大小八十餘からなる群峯の總偁で、飯塚部隊長が華と散った東孤嶺もその一嶺である。その群峯の一嶺を牯嶺(クー・リン)といふ。海抜三千五百餘尺、附近一帶は英國宣教師團の經營に係る租借地であったが、數年來牯嶺管理委員會なるものを設けて、名目上支那側の管理下に置くことゝなった。我が國の輕井澤または雲仙と同じく近代的な別荘、旅館多く、夏期此の地には上海、漢口等より外人の避暑する者多く、盛夏の候も溫度七十五、六度を超えない避暑地である。その他此の地は往昔名僧學者の來集せし處で、山の内外到る處に古刹、名勝、古跡は枚挙に遑が無い程である。中にも寺院には天池寺、東林寺、膽雲寺、棲賢寺、秀峯寺等がある。また山嶺の著名なるものには五老峯、香爐峯、雙劍峯等あり。古代にはこの靈峯に登って修行せし有名なる道士、學者、名僧はその數を知れずとされてゐる。
而して近年に至っては、蔣介石は屢々牯嶺の別荘にあって、軍政要人を招致し、また夏期には盧山々麓に於て靑年將校の訓練を成し抗日意識の扶植に努めた。盧溝橋事件の直後蔣介石が「盧山談話」を發表して抗日の意見を明らかにしたことは、まだ記憶に新なるところである。