戰蹟の栞(122)
廣西省(3)
〔潯州(シン・チョー)〕
潯州府城(桂平縣)は桂州を距る百十哩、南寧を去る二百五十哩の地點にあり、平南より江を遡る事二十八哩、柳江の一派たる大黄江の來りて西江に合する點、江口より更に遡航すること約十四哩である。此の地は南西一帶に削れる如き連峯を繞らし、就中思陵山の奇峰は海抜二千尺、風景絶佳である。潯州は周の百粤の地で秦に至り、桂林郡となし、漢には鬱林郡を置いた。元に至って潯州路總管府を置き、廣西道に屬せしめ、明の洪武三年これを改めて潯州府とした。人口約二萬五千、府城の城壁は宋代の遺物で、構造堅固かつ壯大である。西江と鬱江の間に位し、その周囲圍約八支里、六城門を有す。人家櫛比せるも市街は狭隘にて、蘩華なるところ少なし、最も殷賑の區は小南門外大街で、稠鍛舗、寶玉店、依衣舗等軒を並べてゐる。
潯州府下は平野多く、農業比較的發達してをり、南寧府と共に廣西省の穀庫だと偁せらる。農産物の主なるものは、米、玉蜀黍等で、米は廣西各地及び廣東に輸送さる。その取引は潯州府交通の門戸たる江口に於て行はれる。工業品としては葯材の製造盛んである。この地の輸出品は、木材、薪木、米、玉蜀黍、豆、絹絲等で、輸入品の主なるものは、燐寸、綿絲、綿布、煙草、扇子、紙等である。
この地の税關は南北兩關に分れ、いづれも舊關である。北關は南關の分局で、北河(紅水江)の岸にあり、南關は南河(鬱江)の沿岸に在り、兩關を合し収入年九萬兩といはる。
〔平南(ピン・ナン)〕
平南縣城は梧州を距る六十九哩、南寧を距る二百五十餘哩、西江の左岸にある。人口約八千。市街殷賑を極む。この地の交通は西江往來の汽船、或は民船に依る。附近の平野は水田よく開け、米穀の産多く、廣西省に於ける主要の米産地として知らる。玉蜀黍、落花生の栽培にも適し、養蠶も盛んである。
〔貴縣(クイ・シェン)〕
貴縣は潯州より約六十哩、南寧を距る百七十餘哩、鬱江の左岸に位す。江を隔てゝ南一支里に南山等あり、稻黍の中に石灰岩より成る二十四奇峯の屹立せるを見る。城の西北三哩に天平及び龍頭の二山あり、三叉大北の連山は一大弧線を成して東北に彎走し、宛然市街に對して屏風を開きたる如く、市街と山脈の間に豐饒なる貴縣の平野が抱かれる。貴縣は壯麗なる都會で、山紫水明、詩人墨客の杖を曳くものが多い。
人口約二萬五千。市街は城内外に分れ、縣城の周圍三支里餘、城門五を有す。市民の大半は城東の外坊に住居し、各種の生業に従事す。市内は一般に家屋の建築宏大にして、新造にかゝはるもの多く、殷賑優雅なる都會である。この地は潯州と南寧の略々中間に位し、河船の寄港地で、また民船の集合地である。上流南寧、下流潯州、梧州間の交通頻蘩を極む。陸路による交通は未だ幼稚で到底水路の利便なるに比す可くもない。附近の農業は極めて盛んで市民の大部分は農民である。農産として主なるものは、米、玉蜀黍、落花生で、藍靛、砂糖の産もまた少なくない。米、玉蜀黍は梧州を通じて廣東、香港に輸出される。商取引は主として梧州、南寧に對して行はれる。輸出品の主なるものは、米、玉蜀黍、落花生、藍靛、獸皮等で輸入品の主なるものは、綿絲、綿布、煙草、海産物、燐寸、石油、紙、陶器等である。工業品として落花生油の製造あるも産額未だ大ならず。
〔柳州(リュー・チョー)〕
柳州府城は潯州を去る水路四百支里、柳江が大曲折をなして流るゝところにあり、この地は昔柳宗元が流滴されたところで、住民今なほ節義に厚い。城の南岸に馬鞍山あり、北方に延びた數個の孤丘を除き、平野遠く連り、いはゆる柳州平原を成してゐる。
柳州は貴州、雲南、湖南、安南、廣東の各省に通ずる通路の中心にして極めて蘩華な商業地區である。柳州の市街は柳江によって馬蹄形に圍繞され、背後には岩山の絶壁を負ふ。民國十七年十月大火によって城内西側を全部燒失し、二千數百戸が灰燼に歸した。現在人口二萬九千。廣西當局はこの大火災に於て、理想的新市街を建設せんとし、經費四百萬弗を計上したが、支出困難で、なほ行悩んでゐる。但し、目下部分的に復興しつゝある新市街の體裁は、決して文化都市として恥ぢない立派なものである。
〔柳宗元の遺跡〕
市の周圍には立魚峯、甑山、峨山、鳳凰山、文筆山その他三十餘の奇峰群立し、頗る景趣に富んでゐる。城内には柳侯公園あり、唐の柳宗元を祀ってゐるのである。柳宗元は柳州市民が最も崇拝せる歷史的人物の一人で、かつてこの地に刺史として來てゐた。當時柳州に於ける一般の風習として、市民が貧困に陥れば自己の娘を質に入れて金を借り、生活費とする習慣があった。
もしこれが請出せなければ、娘はそのまゝ流轉の身となり、一生淪落の淵から浮かばれなかった。この悲惨なる情況を見て柳宗元は、市民の爲に資金融通の金融機關を設けて多數悲境に泣く娘たちを救った。この功績を頌表するため柳侯公園を設け、その遺跡である柳侯祀祠を保存してゐるのである。
柳州には柳州飛行場、機械廠、空軍學校竝に農事試驗場、軍事施設竝に重要機關がある。特にこの地の飛行場は事變後に於て莫大なる費用を投じて擴張され、江西の南昌飛行場に次ぐ大飛行場としての新設備が施された。爾來、支那側が佛蘭西より購入せる飛行機は、佛領印度支那に陸揚され、直ちにこの地に輸送され同飛行場を根據地として戰線に活躍してゐたが、九月十三日及び同十八日の兩日に亘り、我が海軍航空部隊は柳州飛行場を急襲、大爆撃を行い、格納庫その他の建物を完膚無きまでに粉砕潰滅した。
柳州は軍事上極めて重要地點であるのみならず、商業地としても梧州、南寧に次ぐ市場である。産物の主なるものは、米、甘蔗、落花生、玉蜀黍、芝麻等あり、更にこの地の棺材は極めて有名で古來『死ぬなら柳州』といふ言葉がある位である。
〔融縣(ユー・シェン)〕
融縣は柳江の西岸、通道江、融江の會流點と東江、柳江の合流點の中間に位し、柳城を距る約百五十支里の地點にある。人口約一萬に近く、住民の生活單純なること柳城に劣らず、船夫少なく農家多數を占む。城内の農家は、多く地主の類であるが、皆、簡易なる生活をしてゐる。土布の産出あるも産額少なく、紙は年三十萬斤を産すといはる。
〔柳城(リュー・チョン)〕
柳城縣は柳州より柳江を遡る事約六千支里、柳江と龍江との合流點に位し、人口三千を有す。氣候は柳州と大差なけれど雨量は柳州に比して更に多し。住民の生活程度は柳州、潯州に比して數等低く、商業の不信なると共に交通亦頻蘩ならず。
〔百色廳(パイ・ソー・ティン)〕
百色は南寧を去る八百五十五支里、右江本流と泗城より來る泗城河との合流地點右岸の北岸にあり、氣候は熱帯に屬し、かつ大陸中にあるを以て暑熱甚だしく、瘴癘の氣多しといはれる。城内は極めて狭く、周圍六支里、城外は比較的廣くして諸事整頓せるを見る。城外を合して戸數三千、人口一萬五千といはる。この地の住民は商業を營むもの多く、かつ一般に活氣を呈するを以て生活も他の地方に比して華美である。特に大なる商舗は廣東人で概して商才に長じてゐる。
百色は雲南との交通の要路にあたるが、その交通路の主なるものを擧ぐれば、一、水路南寧に下るもの。二、泗城府に通ずるもの。三、西、雲南に出ずるもの。四、南、養利を經て龍州に通ずるもの。五、貴州との交通、水路南寧に通ずるは四季を通じて最も便利であり、增水期には汽艇が通ってゐる。泗城府には二百五十支里三日の行程である。雲南との交通同様、馬または嶠子による。養利を經て龍州に至るもの七百支里七日の行程である。貴州路は西隆州を經て興義に入るもので五百八十支里七日の行程である。雲茶、土布、米穀、家畜、水牛、牛骨、水品、藥材等を輸出し、外國雜貨、紙類、燐寸、莨、石油、綿紗、綿布等を輸入す。
〔廣西派の軍事的據點〕
いはゆる廣西派の首領、李宗仁、白崇禧が一九二七年、蔣介石から離れてこの地に據り、大廣西主義を標榜して省内政治の刷新に乘出してから廣西省は各方面に於て著しい進歩發達をみた。その中でも特に注目を拂はれるのは政府幹部員が心血を注いで組織編制した民團軍である。民團軍の常備隊は百餘個隊、兵數約一萬人、後備隊は四千餘個隊で兵數三十六萬五千名と註せらる。武器また三十萬挺の銃器を有し、正規軍に比して敢へて劣らぬ實力を備へてゐる。これら民團軍は省民皆兵主義に基づいたもので、十八歳より四十五歳までの男子は悉く團軍に参加しなければならぬ。各地區によって編成されたる民團軍は、現役將校である各區長によって猛烈なる軍事訓練が施される。かくて速成三ヶ月で前線へ繰り出されるのである。今回事變においても李宗仁が第五戰區司令として徐州の守備に任じた際、廣西のこれらの民團軍は前後三回に亙り總人員二十萬が前線に送られた。これらが果たしてどれだけの戰功を樹てたかどうか知るところでないが、その民氣の旺盛な點は想像以上である。尤も廣西には別に正規軍があり、これが軍備の中心になってゐることはいふまでもない。廣西の正規軍は第十五、第七の兩軍が白崇禧、廖磊の兩將によって指導され、平時は十六箇團、約十萬人、戰時は二十萬の強大な兵力を有してゐる。これら各軍の幹部養成所たる中央軍政學校には一千三百名からの學生が養成されてゐる。今回の抗日戰に於ては民團軍の大擧出動を見たが、正規軍の中堅は未だ出動してをらぬやうである。廣西當局の方針としては當初民團軍の五ヶ年計畫を樹て、これが完成するに及び、正規軍及び民團軍を基礎として省内に徴兵制度を布く可く考へてゐた。これがため、すでに全省の戸口調査まで終ったが、偶々今回の事變に遭遇し、計畫は種々齟齬を來した模様である。
〔兩廣の防衞人〕
今回事變が勃發するや、兩廣の抗日氣勢は油然として湧き返った。併し、兩廣の各將領は過去に於ける蔣介石の遣り口に鑑み、徒に北上して地方軍整理の罠に掛かることを慮って、南支防備の必要を理由として成る丈省内に踏止らうとした。これに對して蔣介石は早く廣東の餘漢謀以下、廣西の白崇禧、李宗仁を招集し、兩廣軍の北上參戰を嚴令し、地方黨部の強硬分子を兩廣に入込ませ、さかんに抗日意識を煽って一般民衆を抗戰へと駆り立てたのである。かくて廣東軍は十ヶ師二ヶ旅、約十萬の兵力の内、第百五十一、第百五十二、第百五十三の三ヶ師及び海岸地方防備の軍隊以外は全部出動して、上海、南京戰に參加した譯であるが、この北上軍は抗日意識が猛烈であっただけに最前線に奮戰し、我が軍のため殆ど殲滅的打撃を蒙り、約六萬の軍隊が死傷した。随って現在廣東に殘ってゐるのは餘漢謀の率ゐる前記三ヶ師の外、殘留部隊を加へ幾何もない。これがため餘漢謀は省防軍の不足を訴へ、蔣介石に對して屢々援兵を要求する一方、急遽補充部隊の增加を急ぎ、一部廣西軍の來援を仰いで、その防備陣を固めてゐた。當時傳へられたところによれば
一、廣東省境の大部隊は廣西省より廣東省に入り、梧州、三水間に駐屯、同時に廣西軍は雷州半島以西の廣東省沿海防備に当たってゐる。
一、廣東省境に近き梧州より珠江に沿ひ、三水に至る廣東省内の地域に三ヶ師以上の廣西軍を配し、南支抗戰時における第二陣として體勢を整へてゐる。
一、雷州半島の四半分に一部正規軍、民團軍十九路軍等の改編部隊を配し、廣西の勢力下に歸せしめてゐる。
これら廣西軍は中央軍に比してはもちろん、廣東軍に比してもその装備は劣ってゐるが、その抗日意識は恐らく全支第一であり、現在廣東省に入ってゐる廣西軍の總指揮には第五路軍參謀長李昌仙があたり、日夜飽くなき抗日教育に狂奔してゐる。
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