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願掛けをやめると決めた日
母にがんが見つかり(悪性リンパ腫)、入退院を繰り返しながら治療を続けています。
病気と闘うのは本人で、いくら代わりたくても代わってあげられない。家族はただ全力で支えるのみなのですが。
母の体調不良がおそらくがんらしい、と分かったとき、わたしが思ったのは
「またアクセサリー断ちだな」
でした。
実は母は10年前にも乳がんを患っており、当時わたしは母に治ってほしい一心で「願掛け」をしたのです。それが、自分の好きなものを断つ「アクセサリー断ち」でした。
お医者さまのおかげと、母の頑張りはもちろん、願掛けも功を奏したのか、母は無事に治療を終えて元気になりました。
そういう経験があったので、今回も母のがんが分かってすぐにアクセサリーをすべて外しました。
アクセサリーを一切着けなくなって一ヶ月弱。
『人間にとって成熟とは何か(曽野綾子 著)』を読んでいて、ハッとしました。
私はコレをするから、どうかあの人を救ってください、などと言って神様と取引すべきではない
と書いてあったのです。
「神様との取引」で思い出したことがあります。
10年前、母の乳がん闘病中に愛犬が亡くなったのですが、母が
「まる(愛犬)はお母さんの身代わりになってくれたんじゃないか」
と言い出したのです。
その時わたしは
「そんな取引をする神様がどこの世界にいるねん。一切関係ない!」
と断言したのでした。
人間と取引をするような神様はいない。あの時そう言い切ったわたしが、自分の利益のために神様と取引しようとしている。
なんと矛盾した、なんと浅ましいことだろう。
家族に病気を治して元気になってもらいたい。そのためなら、自分はなんだってする。それは人間として当たり前の感情です。
でも、それを神様との取引に使っちゃいけない。
願いがあれば、ただ、祈る。それがいちばん誠実な行動だと気づかされました。
母の立場になって考えてみたら、私が母のために何かを我慢していることを喜ぶとは思えません。それよりも、家族がいつも通りに生活することが母には救いになるのではないかと思います。
勇気が要ったけれど、まずは結婚指輪を指に戻してみました。
母の体調は? 今日も大丈夫。安定してる。
大丈夫。
私がアクセサリーを着けようが着けまいが、母の治療とは一切関係ない。それよりも、母に会いに行き、留守番の父の様子を伺い、おかずを持っていくこと。母が元気になるように、毎日祈ること。なにより、普段通りの生活をすること。
これが今のわたしの役割。
母がすべての治療を終えて元気になってくれますように。
私は全力で支えるのみです。