きょうの聡太くんとプレイバックたまちゃん 2024/11/26
聡太くんがなんだかんだカリカリを食べる。残しても食べさせようと頑張れば食べる。人間の努力次第で食べる。
白身魚味とチキン味のカリカリを混ぜて食べさせているのだが、別にチキン味に切り替える必要はなかったのかもしれない。たぶん白身魚味だけでも同じ反応なのだと思われる。
最近聡太くんのお腹の調子が少し悪い。完全にくだしているとかではないのだが、以前よりちょっとやわらかUNKO気味である。もしこれがチキン味のカリカリのせいなら2000円をドブに投げたようなものだ。どうしても合わないなら絵の先生のところのオス猫軍団に譲る覚悟である。
どうしてこうも聡太くんはお腹繊細くんなのだろう。あまりにも簡単にお腹の調子を悪くする。チキン味のカリカリだってちゃんとグレインフリーだ。なぜそれでお腹を壊すのか。
たまちゃんは胃腸が頑丈だったので、たとえばカレーの豚肉の味を吸って脂身だけ差し出すと喜んで食べ、それでお腹を壊すことはなかった。ヒトリヒトリの個性というものなのだろうが、お腹繊細はいろいろと大変なのでやめてほしい個性だ。
聡太くんが毎日かわいいの最高到達点を超えてくる。どうしてこんなにかわいいのだろう。
あんまり賢くないところがかわいい、ときどきUNKOがそのへんに落ちているのがかわいい、いたずらばっかりやっているのがかわいい。かわいいというのはこういうことか……となる。
このどうしようもなくかわいい生き物を、なんとか守って生きていかねばならない。わたしにそれができるのだろうかと不安になることがあるが、「できるのだろうか」ではないのだ、「やる」のだ。
たまちゃんと一緒に暮らしたときよりそういう覚悟が3割増しくらいで必要だ。もしかしたら聡太くんは親より長生きするかもしれないのだから。
親のいないがらんとした家で、老いた聡太くんと2人暮らしするのを想像するとなんだか怖い。わたしひとりでなんとかできるものなのだろうか。動物病院は徒歩圏内にはない、わたしは車の免許を持っていない。
悲観したい気持ちもジワジワ湧いてくるわけだが、それはいけない。断固聡太くんと幸せに暮らさねばならない。
最近めっきり寒くなった。
こう寒いとメンタルは落ちる一方である。そしてたまちゃんの亡くなった2月のことを思う。
たまちゃんは拾ってこなかったらあの場で死んでいた子猫なのだと思う。親猫やきょうだい猫に置き去りにされて道路にへたり込んでいたたまちゃんをわたしが拾ったのは、間違いなくたまちゃんの猫生にとってよかったことなのだと思う。
人間に拾われ、その猫生がただ野垂れ死ぬより幸せであったろうことは想像に難くないのだが、それでも幸せだったのだろうか? と考えてしまう。たまちゃんの幸せというのはどういうものだったのだろう。
たまちゃんが亡くなってから、玄関には遺影の代わりに絵画教室に通って書いた古いたまちゃんの絵を飾っている。それを書いたころはまだ初心者だったので、下地もフラットに塗っていたし先生も細かいところまで教えてくれていたのでリアルな仕上がりである。
きのうの夜、玄関からふとガラス戸のほうを見ると、たまちゃんそっくりの黒猫がこちらを見ていた。野良猫だ! 家に入れてほしいのかな!? と思ったら、その野良猫だと思ったものはガラス戸に映ったたまちゃんの絵だった、泣きそうになった。
たまちゃんと聡太くんは別猫だ。だから人間にくれるものがそもそもぜんぶ違う。たまちゃんのくれたものは唯一無二だったしいま聡太くんがくれるものも唯一無二だ。
だから心はいまだにたまちゃんを求めている。もう2度と戻ってくることはないのに。聡太くんとどんなに幸せに暮らしていても、たまちゃんと幸せに暮らした日々が忘れられない。人間というのは面倒なものだ。