戦争と蕩尽について
一昨日ぐらいから、コロナウイルスに感染し、やることがない。
体温はだいたい正常値に戻ったのだが、体が少々だるい。私がこの時間やったことは、本を読むということ。
頭が回らないから、本を読むということも、あまりするべきでもないのだが、本当にそれ以外やることがないのだ。
私はこの蕩尽というキーワードをバタイユを直接読んで、考えたのではなかった。佐藤優と手嶋龍一の共著を読んでそれを考えていた。ウクライナ戦争の嘘 米露中北の打算・野望・本音 (中公新書ラクレ)だ。
この本のなかではウクライナ戦争がアメリカの武器消費のために管理されながら行われていることを指摘している。つまり、消費し米国の経済循環するためにこうした戦争が行われている側面がある。全章を未だ読んでいないが、ここからなぜか消費しつくすこと、つまり蕩尽の概念を思い出した。バタイユ経済学の一節である、戦争は消費の一形態であるとか書いてあったことを思い出したのだ。
核戦争の場合は、消費する主体がいなくなってしまうので行われない。これはおかしなことだ。人は消費するモノであるかのようだ。支配者はそうみているのだろう。
ジジェクはその部屋に模造女性器と刺されたバイブがあって、ようやく安心してカップルが話をできるという話をしている。つまり、お互いを視覚的に消費しあっていることが確認することができてはじめて安心できる。または、お互いに傷つけあっていることがわかるからこそ、安心できるというようなものだろう。痛みのない平穏が無いことを私達は理解しきっているからだ。
私は以前映画スカイクロラについて書いた。この映画は人造人間同士で架空の戦争をし合うようなものだ。わたしは以前書いたときにはスカイクロラをそこまで理解していなかったのかもしれない。安心するために、ひとは模擬の戦争をするのだ。
かさぶたを剥がすような快感が戦争だとすれば、かゆみに我慢し続けるのが日本の立場かもしれない。
私はこの4,5年、欲望についてよく考えた。よく考えたが結論的なものは少ない。仏教が述べる欲望についてはあまり考えなくなった。これが戦争の原因になる、とは考えなかった。これからも考えないだろうと思う。
この本をもう少し読み進めてみたいと思う。
そして、はやくこの気だるさから、開放されたい。
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