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ホーチミン都市封鎖
序章
眠そうな目をこすりながら、窓の外を見やると、明るい日差しが部屋いっぱ
いに広がっていた。
ホーチミンの乾季は、12月から5月頃まで続き、日中の気温は35℃を超えることも珍しくありません。
日本では1月、2月は冬ですが、ここホーチミンは、窓を開けると熱気が部屋に流れ込んでくるような感覚でした。
しかし、朝夕は少し涼んでいて、快適に過ごせる季節でもあります。
ここはベトナムのホーチミン。異国の地で、私はすでに7年間を過ぎようとしていた。
1次ロックダウン発令
その間、ホーチミンとハノイを交互に拠点とし、歯科関係の仕事に携わってきました。
最後の3年間は、日系歯科技工会社のホーチミン支社で駐在員を務め、2019年から2022年にかけて、世界中で猛威を振るった新型コロナウイルス感染症のパンデミックを経験しました。
2020年初頭、新型コロナウイルス感染症が世界的に広がり始めた頃、ベトナムはまだ比較的平穏な日々を送っていました。
しかし、3月頃から状況は変化し始めます。日本でも第1波が猛威を振るい、感染爆発があったころです。
ホーチミン市では、感染者が確認され、居住地周辺が封鎖される事例が目立ち始めました。そして、初めてのロックダウンが発令されたのです。
最初のロックダウンは、スーパーへの買い物も可能で、外出にもある程度の自由が与えられていました。
その間も、世界的な感染拡大のニュースに接し、不安は募るばかりでした。
従業員の間でも感染者が軒並み出てしまい、生産にも影響が出始めました。
その後、会社の移転や新しいスタッフの教育など、多忙な日々を送る中で、新型コロナウイルスに関するニュースからしばらく目を離していました。
しかし、翌年のテト(旧正月)に日本へ帰国する予定が、渡航制限により叶わなくなりました。
2次ロックダウン
そして、2021年5月、ベトナム国内でも感染が急拡大し、7月に入りより厳しい2回目のロックダウンが発令されたのです。
今回は、外出がほぼ禁止となり、食料品などの購入も厳しく制限されました。
会社も完全閉鎖となり、私は会社に寝泊まりしながら、製造ラインの維持に尽力しました。
窓から見える街は、まるでゴーストタウンのようです。
工場隔離生活
最初のうちは、アパートに一時的に戻ることもできるだろうと思っていました。
自宅から工場までは徒歩10分ほどの距離だし、裏道を通ればなんとかなるだろうと安易に考えていました。
しかし、今回のロックダウンは、前回の比にならないほど厳しかった。
街のあちこちにバリケードが設置され、特別な許可がない限りは警備員に立ち入りを拒否される。
外を歩いていると、すぐに警察の巡回に捕まってしまう。
食事は、工場の門まで配達してもらえました。弁当のようなものだったが、何とかお腹を満たすことができました。
食材や生活必需品も、配達員がバリケードまで届けてくれました。
自宅待機中の社長や日本の本社からは、励ましのメッセージや支援物資が届き、心強かったのを覚えています。
寝床は、最初は折り畳み式の簡易ベッドを使っていたが、寝返りができずに体が痛くなり、すぐに別の寝具に替えた。
以前、引っ越しの際に工場に保管していた厚手のキングサイズのマットレスがあったので、それを広げて寝てみたところ、快適に眠ることができました。
ベトナム人の若い従業員たちは、床に薄いマットを敷いて寝ていたが、どこでも眠れるような様子で感心した。
彼らの若さゆえの体力なのか、それともベトナムの人々はもともとどこでも寝られるような体質なのか、興味深いところだ。
外部との情報が遮断された状態では、YouTubeが唯一の情報源だった。
日本から送られてくる製作用模型の納期が、日に日に遅延するようになりました。
通常は2日で届いていたものが、4~5日、ひどい時には1~2週間かかることもありました。
FEDEXやDHLといった国際宅急便を利用していたのですが、中国やホーチミンの集積所で感染者が発生し、施設が封鎖されたことが主な原因と考えられます。
パンデミックという未曾有の状況下では、予測不能な遅延も起こり得るため、やむを得ない部分もありました。
一方、ベトナムから日本へ発送する技工物については、多少の遅延はあったものの、日本からの輸入品ほど大きな遅れは発生しませんでした。
恐らく、成田空港への直送便を利用していたため、中継地でのトラブルの影響を最小限に抑えられたのだと思います。
ホーチミンのロックダウン下においても、何とか製造を続けることができ、ひとまず安堵しました。
1週間、2週間と時が経つにつれ、工場での隔離生活にも慣れてきました。
人間は不思議なもので、極限状態に置かれると、驚くべき順応性を発揮するものです。
若い従業員たちは、少しでも生活を楽しくしようと、様々な工夫を凝らしていました。
例えば、手先の器用な者が、仲間たちの髪を切るなど、理髪店さながらのサービスを提供していた。
シャワーは、トイレの空いたスペースにホースを繋いで簡易シャワー室を作り、交代で利用した。最初はトイレでシャワーを浴びることに抵抗があったが、だんだんと慣れてきた。食事の配膳、洗濯、掃除といった家事分担も、自然と決まって行った。
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食事は、仕出し弁当が3食だったが、夜は時々、支援物資の中から食材を取り出して、料理の上手な者が腕を振るい、皆で宴会を開くこともあった。
限られた食材の中で、創意工夫を凝らした料理の数々には、いつも感心させられた。皆で囲んで食事をする時間は、一日の中で最も楽しいひとときだった。
彼らの様子を見ていて、ベトナム人の持つ柔軟性と適応力に改めて感心した。
日本人同士ならそうは上手く出来ないだろう。
ロックダウンも2か月を過ぎたころ、段々と隔離が緩み始めてきたのが分かった。
ロックダウン解除
何時も巡回しているバイクの警官は見なくなり、近場を散歩することが出来るようになった。
工場の機械が壊れて交換の部品を買いに行けるようにもなった。
9月末で3か月にもなる工場閉鎖も終わりを迎えた。
工場隔離生活丁度100日でした。
何か住み慣れた家から離れるようで一抹の寂しさもあったが、解放された安堵感は大きかった。