見出し画像

現実エッセイ #5 青山学院大学4年後期開始編

 大学4年後期、ついに学生生活最後のタームが始まった!1年次からコツコツと、4年をかけてちょうど均等になるように単位を取り続けている僕には、まだまだ取らなければいけない単位が残っている。とても計画的で、学びに偏りのない素晴らしい計画性なのだが、やはりまだ週3回大学に行かなければいけないしんどさはある。しかも、青学には珍しい、シュルレアリスム研究を行う面白そうな授業がどれも1限で、これまたツラい。

 ただ、ノートをカバンに入れて大学に向かう日々は楽しい。人につい話したくなるような面白いこと、知ると街中の見え方が変わることをこのペースと密度で教えてくれる場所なんて、他にどこにもないじゃないか。(トリビアの泉や大科学実験など、昔のテレビにはこの面白さがあったけれど、現代のゴールデン帯はほとんどインフォマーシャルのような番組や、SNSでバズった映像を繋げて流すだけの無意味な番組ばかりなので、ほんとうにつまらない。)

 表参道駅から青山学院大学までは徒歩7分ほど。ここで聴く音楽にいつも困っている。電車からそのまま同じものを聴くのはなんだか気分と違う。アリの巣のように路線が張り巡らされた大東京の地下深くから這い上がってきたのだから、爽快な気分で、その日初めての音を聴きたい。そうして最近よく選ばれるのが、吉澤嘉代子氏の「月曜日戦争」。電車で何を聴いていたとしても、「月曜日戦争」はいつも、何に対してもフレッシュで、新しくいてくれる。そのままB面のフレフレフラレ(5分ほどある)を聴くとちょうど大学に着くというところもおあつらえ向きでもある。
 金曜日の授業は「建築文化論」から始まる。最前列をとる気満々で入った教室にはもう人が溢れかえっていた。おそらく200人ほどいるだろうか。立ち見のシステムが導入された授業を4年間で初めて目の当たりにして、「東京ドームの巨人戦でしか見たことないよ!」と心の中で呟く。あ、いやいや、そういえば今度のZAZENBOYS武道館の公演も自分がとれたチケットは立ち見だった、とふいに思い出す。建築文化論はプロ野球やZAZENBOYSくらい面白い授業なのだろうか。

「席に座れない人は適当にそこら辺にあぐらでもかいて座っていてください。」

聞いたことがない類の教授のアナウンスに少しウケながら、3列目の端っこに1つだけ席が空いているのを見つけて座る。

 大学の大教室には同じ年代のさまざまな人種が集まる。タトゥーを腕いっぱいに入れてイケイケなファッションを身にまとったやつから、ユニクロのスウェットセットを着た寝癖のままのやつまで。人間観察をするにはもってこいの場所だ。その観察記録の1行目には、「遅刻してきたアウトローに見えるやつが実は一番、積極的に先生に質問したり手をあげて最前列に座っている。」などが書かれている。他にも、「一度も喋ったことがないのに、授業がなぜかほとんど一緒なやつがいて、期末の頃には勝手に同志みたいに錯覚して舞い上がり、試しに会釈してみるけど、誰?みたいな顔をされて少ししょんぼりする」というあるあるも存在する。

 ちゃんと面白い授業を取れば、何かで見たアメリカの大学の授業のように、いろんな人種が「学び」という目的を持って集まる教室にたどり着くことができるのだ。(最前列から10列くらいの雰囲気においてのみ、だけど)

 僕は1年間休学をしていたので、(コロナ禍に入学した我々の代は、その一年を取り戻すために休学をする生徒が例年よりも多かったように思う)今年で5年目の大学生活になる。周りの学生を見渡すたび、「ああ、僕は確かに5年生だなぁ。」と感じる。この感覚を言い換えるなら、「落ち着き」や「我関せずな態度」だろうか。つまり、巨大な大学という組織の中での「自己」が確立されてきたように感じるのだ。たとえば僕は目が日差しに弱く昼間サングラスをかけていないと夜目が痛くなってしまうのだが、大学一年生の時は恥ずかしくてとてもサングラスなんて学内ではかけられなかった。でも今では自分の目を守るためにサングラスをかけることを厭わない。誰にどう見られようがこの大学の中での「自己」は変わり得ない、というある種の自信を手に入れたからだ。箱庭的だった高校までを卒業し、自由と自立を強いられる大学という環境の中ならではの成長だと感じる。「子供としての成長」ではなく、これがきっと「大人になる」ということなのだろうと思う。
 授業を終え、僕はいま青学にほど近い喫茶店「SEA BIRD」でこの文章を書いている。僕のホーム喫茶だ。(ここのオムライスがほんとうに美味しいからみんなに食べてほしい!店に行ってほしい!)コーヒーをもう一杯頼んだら、つぎのEP(来年)の構想とプロットを書いて、渋谷のスタジオのリハーサルに向かおう。

いいなと思ったら応援しよう!