「自死という生き方」を読んで
自死という生き方(須原一秀 著)という本を読んだ。
今から15年ほど前に、自死を遂げた哲学者の遺稿らしい。
筆者は、いずれ確実に訪れる「老い」と、それに伴う生活の質の著しい低下を忌避し、心身ともに頑健なうちに自死を遂げるのは、なんら不思議なことではないと解いていた。
哲学関連の専門用語や、前提知識が必要になる箇所も多少あり、内容を全て理解できたかはわからないが、概ね面白く読めた。
何より、自分がなぜ死にたいと思っているのか、整理できたし、新しい考え方ができるようになった。
須原氏は著書の中で、自分は人生の「極み」と呼ぶべき瞬間を何度か経験してきたとのべていた。
家族団らんの最中や、仕事に関わるなにかを完遂したとき、趣味に没頭しているときなどに感じる。ああ今最高に幸せだなあという感覚のことだと思う
十分な「極み」の経験があるから、満足のいく人生だったと肯定的に自分の人生を捉えることができる。
また、「老い」「生活の質の低下」の枷を負いながらでは、それまでと同等もしくはそれ以上の「極み」を得られないだろうと続けていた。
故に、老いに体を侵される前に自死を選ぶ。
無茶苦茶ざっくり言うと、このように主張をしていた。
この考えかたに触れて、自殺に向き合う姿勢が若干変わった。
今までは、辛い、悲しい、惨め、情けない そういった負の状態から逃げるための手段として自死を検討してきた。
27年間という、短い期間だったものの、終わりかたも急だったし、やってみたかったことも山ほどあったけど、まあ、十分楽しめた。
この体で過ごす、想定される今後の人生と比較して、どれほど貴重で尊い、充実した時間だっただろう。
もう、充分生きた。
そう思えるようになった。
今後の人生に悲観的になるというよりは、今までの人生を肯定して、もうこれ以上やることがないから死にたいと、そう思えるようになった。
むっちゃ楽しい旅行から帰ってきて、寝る前みたいな感じ。
あー楽しかった。と思いながら、少しもったいなく感じつつ、他にやることもないから、寝る。
ニュアンスそんな感じ。