現代の学びの在り方

伊藤穣一さん(Joiさん)と妹のmimiさんとの対談です。テーマは今の若い人たちがオンラインをどのように使って学んでいるかについてでした。

印象に残ったのが、幼少期からJoiさんは学校が嫌いで、嫌いだった理由は、学校は学ぶというよりも、命令に従うという要素が強いからだったそうです。成績をとるために働くという感覚がわからないという表現も使っていました。

ぼくはそれを聞いて、そんな風に思って、そう思ったら学校をやめれた姿勢をとてもうらやましいと思いました。僕自身も幼少期からその構造、つまり勉強する=成績のために働く、とか=命令に従う、というところに気づいてはいましたが、そこにあらがうことはできませんでした。とくに僕の場合は学校で生活する=先生の気分を害さないというところが自分の心の根底にあり、授業をまじめに受けなければ怒られるとかそういった気持ちがあったので、あらがうなんてことはできませんでした。そうした日々を長年続けてしまったので、もうそういう体になってしまい、大学にいってまでも同じように、なんなら卒業してからいままでもそういう反応が自分をコントロールしていると思います。おかげで中学~大学まで成績は良かったですが、そこには何の意味もなく、得られたのはその時々での周りの人からの賞賛くらいでしょう。もはやそれは戦争中の軍の兵隊のようなものです。上からの命令をそのまま忠実に守る、自分の中に出てくるアイディアには蓋をしてできるだけ余計なことはしない。そういった信頼できる部下を作り上げるための教育が成されてきた長年の歴史が、1997年という比較的近未来的な時代に生まれた自分の世代の教育でもそれが成されてきたんだと思うし、そうした中で生き残ってきた人たちのDNAが後世に残され、自分の中に生きているんだと思います。

こう考える中で、自分は誰かにコントロールされて生きてきたなということを痛感しています。いまも職場のオフィスでこの文章を打っていますが、幸いなことに今日は僕一人なので、気兼ねなく好き勝手過ごせるので、この文章を書けていますが、ここに職場の上司がいたら、こんなことできませんし、その目をうかがいながら常に行動してしまう自分がいると思います。

ただそこで問題なのが、いまこの文章、僕としてはすごく自由で自分の思ったことが流暢に頭から湧き出ている感覚がありますし、これが自分だ、という感覚もありますし、この瞬間にあぁ生きている・自分の真価を発揮できているという感覚があるんです。その感覚をより多くの場面で感じることが、自分のためにも、世の為にもなると思うのですが、じゃあそこに上司や先生がいたら、なんなら関係の良好な親がいても、自分の中にあるこの能力は使えず一日を過ごすことになります。それは言葉に表すことのできないレベルのストレスになります。僕自身、これがこの世の根本的な問題だと思っています。世の中の事件や病気すべての根源は、自分のもつ可能性を押し殺してきた日々によって生まれたストレスの蓄積が原因だと思います。

日々人の目にコントロールされず、自分の真価を中心に生きていくことは果たして可能なのでしょうか?僕が知る限りそれができているのが、Joiさんやイチローさんかなと思います。そういう風になりたいし、教育する立場になったときに、そういった思いを体験させて、それがあってると諭してあげられる人になるべきだと思っています。が、多くの人がそうなった場合、逆に人に従える人間が今度は重宝されるようになるのではないかという気がして、そのdilemmaというか天秤にかけられる思いで、ambivalentな感情を抱いています。どういう風に学んでいくというか、生きていくべきなのでしょうか?

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