「耐用年数の高い文章を書く」ための議事録入門
ぼくは、ビジネスにおいて不可欠なスキルの一つに、「耐用年数の高い文章を書く力」があると考えます。
「文章の耐用年数が高い」状態とは、読み手の文章の理解度が、読み手の立場と読むタイミングに依存していない状態を指します。つまり、ぼくの定義では、耐用年数が高い文章とは、誰がいつ見ても解釈のブレが小さい文章、ということになります。
なぜ誰がいつ見ても解釈のブレが小さい文章を書く力がビジネスにおいて不可欠かというと、ぼくたちはじぶんが書いた文章がいつ誰に見られるかわからない一方で、誰にいつ見られても意図している内容を伝えられる文章を書く必要があるからです。
こうした正確性を求められるビジネス的な文章の典型は、議事録でしょう。ぼくたちは日常的にカイギを執り行うので、いちいち議事録を書く仕事が発生します。議事録の役割は、文字通り、カイギ中に起こったこと(議事)の記録にあります。読み手は、誰であれ、いつであれ、議事録を読めばそのカイギで起こった内容をつつがなく理解することができる必要があります。
もし、議事録が、読む人によって解釈が割れてしまうような書きぶりであったり、文意が特定できない曖昧模糊な表現で溢れている場合、それはもはや議事録としての役割を果たしていません。極端な話、10年後に内容が全く関係のない第三者によって検証されたとして、話し合った内容が明快に読み手に伝わるように書かれていなければ、議事録を取る意味はありません。
世の中には、ビジネス文書を読み書きすることに苦手意識があると言うひとが結構います。論理的な文章を書けない、主述の対応が曖昧な文章を書いてしまう、相手に伝えたいことが不明確と指摘される、などなど、彼/彼女らの主訴は多岐に渡りますが、ぼくはそうした苦手意識を持つ人に共通している傾向に対して、一つの仮説を持っています。それはこうです。
議事録を、きちんとひとに見て直してもらったことがないのではないのではないでしょうか。
議事録をひとに見て直してもらうというのは、同僚から「ちょっとこれ事実と違うので補足します」と言われるとか、「あ、これも念の為付け加えておいてください」とつっこまれる、とかいうレベルの話ではありません。あなたの書いたものが、あなたやあなたのチームの成果物として提出され、あらゆる人々から参照、評価され、いざとなったら物的証拠として法廷に持ち出されるという前提のもとで、上位者に責任を持って校閲してもらうということです。
このような前提に立つと、議事録はあなただけの言葉ではなくなります。あなたが議事録に書いたことはチームの言葉となり、チームが認識した事実となり、それが文字通り現実となります。だから、あなたの書く議事録は、二重三重に、文字通りメッタメタに添削されます。それこそ、原型を留めないくらいに。
僕はコンサルタントをファーストキャリアに選びましたが、今でも良かったなと思う(数少ない)経験は、死ぬほど議事録を書かされ、直されたことです。文字通り、死ぬほどです。
配属されて最初にチームのシニアメンバーに提出した議事録が、自分の目の前で赤だらけになっていくのを唖然としながらみていたのを今もよくおぼえています。なぜ、どうして、ぼくの議事録はこんなに直されるのか!と、ものすごくイライラしました。てにをは、の修正はもちろん、文書は全て体言止めに矯正、一切の略語は元の語に復元、主語動詞目的語が揃っていない文はことごとく赤入れされました。それが逐語的にメモした言葉であっても、問答無用です。しかも、ダブルチェックが入るんです。シニアメンバーと、マネージャー。毎度毎度、インデントレベルで、ダメ出しです。
こうした一見過剰に見える品質担保の工程は、しかし、耐用年数の高い文章を生産するために最も重要なスキルを、新人にインストールするために必要なものです。そのスキルとは、自分の言語に他者をインストールすること、すなわち、自然に他者に見られることを意識/体感しながら文章を書けるようになることです。自分の言葉が跡形もなくなった提案モードのドキュメントを前にして、「じぶんなら絶対こうは書かないだろうけど◎◎さんならこういうだろうな」と思いながら、自分の文章に無数の他者の目線を宿らせるのです。
こんな経験は、ベンチャー企業ではまずできません。ベンチャーでは議事録の品質が悪いからといって事業の提案が跳ねられることもありませんし、議事録を誰かに丁寧に添削してもらう機会も少ないですし、あと、議事録をそもそもあまり書きません。書いたとしてサマリーとメモ、アクションを2、3個付記しておく程度が関の山でしょう。クライアントワークをやっているのでもない限り、ぼくが先に述べたような工程は、あきらかに過剰品質です。
そもそも、ベンチャーは、きちんと文章を推敲する機会に乏しいです。非同期的に繋がったコミュニケーションツールで、フロー情報としての文章を『投げる』のが日常です。議事録に何時間もかける暇があったら、他のことをしろと誰もが思うでしょう。
こうした環境では、しかし、自分の言語に他者をインストールする機会がありません。たとえ自分の文章が齟齬を生んだとして、それは不幸な事故として処理される程度ですむしょう。仮に、「もう少し論理構造に注意しましょうか」くらいの指導を誰かにしてもらったとして、あなたはそれを真剣に聞き入れるでしょうか。そう捉える人もいるよな、くらいで済ませてしまうのではないでしょうか。
大切なのは、あなたの文章が無理やり目の前で解体されて跡形もなくなった後に完成する、「議事録」という名の怪文書と対峙することです。違和感で吐きそうになるかもしれません。不快感でムカムカするかもしれません。じぶんの生きてきた歴史や体得してきた能力を否定されたような感覚にすらなるかもしれません。しかし、それが肝要なのです。
あなたの文章の耐用年数は、あなたがあなた自身の言葉や感覚を、どれだけ否定的に見ることができるかに依存しています。自分の言葉が通じないのは他人のせいだと思っているうちは、文章の耐用年数は上がりません。これは決して、他人に対してもっと謙虚になれとか、そういう意味ではありません。そうではなくて、あなたの文章に目の前で赤入れをする誰かと向かいあって、元版と修正版を並べて、その違いをただ脳に焼き付ける勇気があるのかを問うているのです。自分の文章に、語尾に、インデントに、目的語に、体言止めに、粛々と他者をインストールするのです。
あなたの文章の耐用年数は、あなたの議事録がバラバラに解体され、跡形もなく踏み荒らされ、誰かの思う「綺麗」に、強引に整理整頓された経験の数に比例しています。あなたの言葉が何百通りの「綺麗」をインストールするまで、書くのです。議事録を。
巷にはロジカルシンキングとか、文章の書き方みたいな本が溢れていますが、耐用年数の高い文章を書く一番の近道は、あなたの言葉に宿る他者の数を増やすことに他ならないと、ぼくは強く信じています。かしこ。
追記:
このような言葉と他者との関係に興味関心のある方におすすめの書籍はこちらです。ウィトゲンシュタインもソシュールも、原著で読みたい方はぜひ『哲学探求』『一般言語学講義』を。ラカンはやめましょう。