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料理漫画とポリティカルコレクトネス ロボトミーされる海原雄山


「これが正しい」と言えなくなった時代

美味しんぼ』の海原雄山は、単なる料理漫画の枠を超え、文化、価値観、そして「正しさ」そのものを体現する象徴的な存在でした。彼は料理を通して「何が正しいか」を厳格に断じ、その絶対的な価値観を物語全体に押し付けることで、読者に強烈な印象を与えてきました。冷やし中華を「愚劣」と断罪し、アメリカ料理を「墓場」と酷評する彼の過激な言辞は、現代的な観点から見れば不寛容で排他的と批判されるかもしれません。しかし、かつてはその言葉が揺るぎない「正しさ」を提示し、読者間に共通の文化的基盤を築き上げていたのです。

あれから幾星霜、時代は流れ、社会の価値観は多様化しました。それに伴い、雄山の存在もまた「変容」を余儀なくされます。孫の誕生を機に、彼は家庭的な温かさを見せるようになり、かつての独善的な権威は徐々に失われていきました。この変化は、単なるキャラクターの成長という枠を超え、「正しさ」を語ること自体が困難になり、文化や価値観の共有が難しくなった現代社会の姿を鮮やかに映し出していると言えるでしょう。


海原雄山が象徴する「権威」の時代

かつての料理漫画、特に『美味しんぼ』、『味いちもんめ』、『江戸前の旬』といった作品群では、文化や価値観における「権威」が重要な役割を担っていました。例えば、雄山が冷やし中華を批判する場面には、日本料理の伝統と美学を守ろうとする彼の強い使命感が込められていました。同様に、アメリカ文化への痛烈な批判も、日本料理こそ至高であるという信念、そして他文化との明確な差異を強調することで「正しさ」を示すための手段だったと言えるでしょう。

味いちもんめ』や『江戸前の旬』では、職人の世界における厳格な規範が詳細に描かれ、「本物の料理」とは何か、「職人としての心得」はどうあるべきかという問いを軸に物語が展開されていました。これらの作品は、文化的規範や価値観がまだ一定の規範性を持っていた時代だからこそ、テーマに多くの読者が共感できたのです。

現代社会では、このような規範の「押し付け」を極端に嫌う風潮が強まっています。雄山のようなキャラクターが絶対的な権威を持って何かを語ることは「時代錯誤」と見なされ、物語からそのような要素は排除されつつあります。なぜこのような変化が起こったのでしょうか。それは、社会全体の価値観が相対主義へと大きく傾斜し、個々人がそれぞれの価値観の中に閉じこもる傾向が強まっているからと言えるでしょう。

例えば、かつては「良いとされる日本料理」の像が比較的共有されていましたが、現代では、伝統を重んじる人もいれば、革新的な料理を好む人もいます。健康志向の人もいれば、ジャンクフードを愛する人もいます。SNSの普及もこの傾向を加速させています。誰もが自由に発信できるようになった結果、無数の価値観が可視化され、どれが主流なのか、あるいは共通の基準となるのかが曖昧になっています。

このような状況下では、雄山のようなキャラクターが「これが正しい」と断言することは、他者の価値観を否定し、押し付ける行為と受け取られかねません。「それはあなたの価値観であって、私の価値観ではない」という反論は、現代社会では非常に強い説得力を持つようになりました

結果として、物語から絶対的な権威を持つキャラクターは敬遠され、代わりに、多様な価値観を肯定し、共存を模索するようなキャラクターが求められるようになっています。


現代の料理漫画が映し出す時代性

この変化は、近年の料理漫画に顕著に表れています。かつての料理漫画が、料理を通じて「正しさ」や「あるべき姿」を示そうとしていたのに対し、現代の作品群は、個々人の多様な価値観を尊重し、押し付けがましさのない、穏やかな食卓を描く傾向が強まっています。これは、前述した現代社会の相対主義的な空気、個々人がそれぞれの価値観に閉じこもる傾向を色濃く反映していると言えるでしょう。

例えば、『舞妓さんちのまかないさん』では、料理は文化的な規範を提示するものではなく、日々の疲れを癒す「温かさの象徴」として描かれています。主人公のキヨが作る料理は、舞妓たちの心を優しく包み込みますが、そこに「これが正しいまかないだ」「こうあるべき」と断じるような要素は一切ありません。彼女が作る料理は、あくまで舞妓たちの好みや体調に合わせたものであり、多様なニーズに応える柔軟性を持っています。


昨日何食べた?』も同様に、料理を日常生活の一部として軽やかに描いています。弁護士の筧史朗と美容師の矢吹賢二という男性カップルの日常を描いた本作では、日々の食卓が二人の関係性を育む重要な要素として描かれます。彼らは「男はこうあるべき」「食卓はこうあるべき」といった規範を語ることなく、ただ自分たちにとって心地よい食卓を築いています。スーパーで食材を選び、手際よく料理を作り、二人で食卓を囲むという何気ない日常の中に、かけがえのない幸せが描かれています。


さらに、近年では異世界グルメ漫画も人気を集めていますが、これらの作品群も、現代的な価値観を反映していると言えるでしょう。例えば、『異世界居酒屋「のぶ」』では、中世ヨーロッパ風の異世界に日本の居酒屋が現れ、現地の住人たちが日本の料理やお酒を楽しむ様子が描かれます。異文化交流を描きながらも、そこに文化的な優劣や押し付けは存在せず、ただ異文化の出会いと交流が肯定的に描かれています。


これらの作品群は、現代社会における相対主義的な空気を見事に反映しています。読者は、各々が異なる価値観を持ち、それぞれが異なっていて良いのだという感覚を抱きます。しかし、それは同時に、共通の言語や議論が排除された世界でもあります。かつて、雄山のような存在がいた時代には、その「正しさ」に対する反論や議論が生まれ、文化的な対話が活性化される側面もありました。

現代の作品群が描く世界では、そのような「対話」が起こらず、各々が自分の好みに合った食べ物を消費し、それぞれの世界を楽しむことをよしとしています。これは社会全体の相対主義化、すなわち「蛸壺」化を象徴しているように思えてなりません。


美味しいを共有することの難しさ:アイデンティティ・ポリティクスの影響

現代社会では、「これが美味しい」と語ることさえ、時に暴力的と見なされるリスクを孕んでいます。誰かが「これが最高だ」と断じる行為は、他者の価値観を否定し、自身の価値観を押し付ける行為と解釈される可能性があるからです。食は個人のアイデンティティと密接に結びついているため、食に関する言説はよりセンシティブなものとなっています。

例えば、「ヴィーガン」や「ハラール」といった食の選択は、単なる食習慣の違いを超え、個人の思想や信条、所属するコミュニティを示す記号となり、それに対する批判は、そのアイデンティティそのものへの攻撃と受け取られる可能性があります。

このような状況下では、料理だけでなく、文化や価値観全体が「フラット」で相対的であることが求められます。だからこそ、個人がそれぞれのコミュニティで、それぞれのペースで食生活を楽しむ様子を描いた「優しい」料理漫画が多くの支持を集めているのです。

従来の料理漫画では、伝統や規範を巡り「他者」と邂逅し対話を重ねるシーンが繰り返し描かれてきました。伝統や規範の外部から、それを軽視し挑戦を仕掛けてくる悪役はコミカルに描かれますが、しかし異なる価値観を掲げた他者同士が対話と食事を通じて理解し合うというお膳立てが説得力を持っていたのも事実でした。これに対して、現代的な料理漫画は、「他者」の存在は事前に排除されており、仲間内で美味しい料理を共有することに終始する傾向があります。食は他者とコミュニケーションを行うための道具ではなく、仲間内の絆を確かめ合う儀式になったといえるでしょう。

共通言語を失った社会では、「他者」と親密なコミュニケーションを築くことが難しくなり、「美味しい」という身体的感覚を深く分かち合うことが非常に難しくなります。料理漫画の変遷は、社会における共通言語の喪失に性格に対応し、現代的な消費者の求める「優しい」蛸壺の中のコミュニケーションに適合したものと言えるでしょう。


ロボトミーされた権威と現代の狂騒:アイデンティティの時代の食卓

ロボトミーされた海原雄山は、もはや物語の中で士郎と激しく対立することはありません。彼の権威性は「キャンセル」され、無害な好々爺へと変貌を遂げました。しかし、それは同時に、彼が権威としての役割を完全に失い、人々に共通の価値観を提供する基盤をも失ったことを意味します。正しさや権威が失われた文化は、必然的に分断化し、共通言語を持たないまま孤立していく運命を辿ります。それは、社会における真の対話が失われていく過程そのものなのです。多くの人がこの状況に気づいているはずですが、それでもなお、現代社会は「権威」を暴力的なものとして忌避し、海原雄山的なものをロボトミーしてしまうのです。

文化のダイナミクスは「メインストリーム」と「カウンターカルチャー」という二項対立的な緊張関係の中で発展してきました。伝統や権威が繰り返し料理漫画の中で描かれてきたのは、このような緊張感のある対話こそが、文化の発展を促し、社会に共通感覚を醸成していくと信じられていたからに他なりません。従来の料理漫画は、この二項対立を戯画化することで、「他者」と会話する術を伝えようとするものでした。「権威」には、確かに重要な役割があったのです。

海原雄山には、ロボトミーされている暇などなかったはずです。彼は、老人らしく、いつまでも、ある意味で「老害」とも言えるほどの権威を保ち、物語の中で存在感を示し続けてほしかった。そうすることで、現代社会が失いつつある、価値観を巡る真摯な議論の必要性を、改めて私たちに問いかけてほしかったのです。権威として振る舞い続け、その身が朽ちるまで若者から挑戦を受け続けること、その過程を通じて脈々と受け継がれてきた価値観を受け渡すことにこそ、老いていく人がこの世に為しうる最大の貢献があるのではないかと思います。

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