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無言のつながりと、環世界をまたぐこと|『PERFECT DAYS』後編

『PERFECT DAYS』の主人公・平山は、
無口ながらも確かに人とつながり、
日々を慈しみながら生きている。

前編では、彼の仕事に対する姿勢や、
有機的なものと無機的なものの対比について考察した。

後編では、彼が日々出会う人々との無言のコミュニケーション、
彼の規則正しい生活に訪れる変化、そして「環世界」という視点
から、
この映画を深掘りしていく。


無口なプロフェッショナルたちと共鳴する生き方

平山は、一人で暮らし、一人で仕事をし、一人で日々を過ごしている。
しかし、彼の生活には、無言のうちに影響を与え合うプロフェッショナルたちがいる。

  • 「お疲れさん!」と元気に迎える浅草の居酒屋の店主

  • どんな本にも的確な一言を添える古本屋の店主

  • 客の無茶振りに乗るスナックのママ

彼らは無駄な言葉を発さないが、
それぞれの道を極めたプロフェッショナルたちだ。

「身近な5人の平均が自分を作る」とよく言われるが、
平山もまた、無口なコミュニケーションのうちに、
こうした人々の影響を受けているのではないか?

特に印象的なのは、居酒屋のシーンだ。

彼が店に入ると、店主がすぐに気づき「お疲れさん!」と声をかける。
その後、カメラの視点は広がり、
店主が他の客にも同じように接している様子を映し出す。

この瞬間、平山は「特別な存在」ではなく、
ただの"一人の客"であることが示される。

しかし、次のカットでは、
彼が静かにお酒を味わう姿が映し出される。

この一連の流れが示しているのは、
彼はただの一人に過ぎないが、
それでもこの場に馴染み、コミュニケーションを成しているという絶妙な距離感
だ。

東京の雑多な風景の中で、
「人とのつながり」を特別視せず、
ただ静かに味わう——
そこに、この映画が持つ独特な温かさがある。


夢の中の白黒の風景——「規則」と「変化」のバランス

平山の生活は、規則正しく、単調だ。
毎朝決まった時間に起き、決まった手順で仕事をし、
休日にはカメラで木漏れ日を撮る。

しかし、そんな彼の生活の中にも、
少しずつ変化が入り込む。

  • 後輩の連れてきた女性

  • 突然現れた姪っ子

これらの出来事は、彼の平穏な日常を揺さぶる。

この「規則」と「変化」のバランスは、
彼の夢の中の映像にも反映されている。

彼は眠るたびに、
白黒の幻想的な風景を見る。

ベースには、いつも木漏れ日がある。
しかし、その日あった出来事が、そこに重なってくる。

この構造は、
「彼の生活は規則的でありながらも、
少しずつ変化を受け入れている」ということのメタファー
ではないか。

彼は、変化を拒絶するわけではない。
時に戸惑い、時に苛立ちながらも、
ゆっくりとそれを受け入れていく。


「繋がっているようで、繋がっていない世界もある」—— 環世界という視点

作中で、平山はこんな言葉を残す。

「繋がっているように見えるけど、繋がっていない世界もある」

この言葉は、哲学者ユクスキュルの提唱した「環世界(Umwelt)」という概念に通じる。

**環世界とは、「生物ごとに異なる、主観的な世界」**のことを指す。

  • 木漏れ日の環世界

  • スナックの環世界

  • トイレ清掃の環世界

人間は、自由に環世界を行き来することができるが、
それでも交わらないものがある。

例えば、平山の世界と、彼の妹の世界。
彼らは兄妹でありながら、
お互いの価値観を完全に共有することはできない。

彼は一人で静かに生きるが、
妹は「迷惑をかけた」と言いながら、
等価交換のシステムで生きている。

この違いは、
「環世界の違い」として捉えることができる。


姪を迎えに来た妹の言葉——「交換」と「贈与」

映画の終盤、
平山の姪を迎えに来た妹が、
「迷惑かけたわね」と言いながら、手土産を渡す。

この言葉が、あまりにも心に刺さる。

「迷惑をかけた」という言葉には、自由を制限する意図が込められている。

それは、「贈与」ではなく「交換」の発想だ。

彼女にとって、人との関係は、
等価交換の前提で成り立っている。

  • 迷惑をかけたから、お礼をする

  • 借りを作ったから、埋め合わせをする

しかし、平山は、
そうした「交換の世界」に生きていない。

彼は、誰かに親切にする時も、
見返りを求めることはない。

これは、
「等価交換の世界」と、「贈与の世界」の対比なのではないか?

彼の生き方は、
まさに「贈与の精神」に根ざしている。


結論:「環世界をまたぐこと」こそエンパシーの本質

この映画を観て、
自分がどの「環世界」に生きているのかを考えさせられた。

自分は、社会全体のエンパシーの総量を上げたいと思っている。
しかし、自分がまたげる環世界には限界がある。

エンパシーとは、「立場を越えること」なのに、
自分自身もまた、環世界の枠の中にいる。

しかし、だからこそ、
自分は、資本主義の中心であるコンサル会社でエンパシーを掲げる意義があるのではないか。

この映画は、
「環世界をまたぐことの難しさ」と、
「それでも、つながりを感じることの尊さ」を描いていた。

平山は、環世界を自由に行き来する。
言葉がなくても、彼は人とつながることができる。

だからこそ、この映画のラストシーンは、
あまりにも美しく、静かに心に響く。

『PERFECT DAYS』は、
「言葉を超えたつながり」と、「環世界をまたぐことの大切さ」

深く考えさせる映画だった。

余談:近所のカレー屋

『パーフェクトデイズ』を観ながら、ふと近所のカレー屋の店主を思い出した。

彼は無口で、ぶっきらぼうだ。
電話対応も最低限、初見の客にはほとんど無言。
グーグルマップのレビューには「無愛想」「接客が冷たい」といった声も並んでいる。

しかし、僕はこのカレー屋に一年通い続けている。
週に2回、決まったメニューを頼む。
最初は店主の無言に戸惑ったが、今では入ると「どうも」とだけ返してくれる。
それが妙に心地よい。

ある日、平日の昼にふらっと立ち寄ると、
注文もしていないのに、ヤクルトがそっと置かれた。

彼は、僕のことを「この客はいつも来る」と認識している。
それを言葉で伝えるのではなく、
ヤクルトという形で、さりげなく示してくる。

こういう無言のコミュニケーションには、
『PERFECT DAYS』の平山が持つ「職人の距離感」と似たものを感じる。

店内を見回すと、
ポップなポスターが貼られ、新聞の取材記事の切り抜きが飾られ、
自作の食器が並んでいる。

一見、無愛想な店主だが、
彼はこの店をどう楽しみ、どう表現するかを、
誰よりも考えているのだろう。

言葉は少ない。
でも、料理の味、店の雰囲気、置かれた小さな気遣い——
そうしたすべてが、彼の「仕事の会話」なのではないか。

『PERFECT DAYS』の平山もまた、言葉を超えたコミュニケーションを実践していた。
カレー屋の店主と同じように、彼の行動の一つひとつが、
世界との対話になっていたのだ。

無口な人の「言葉にならない思いやり」は、
言葉よりも雄弁なことがある。

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