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怒り・赦し・愛・不安|映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択』
フラットで「正しい」映画——しかし、理知的すぎたか?
『ウーマン・トーキング 私たちの選択』は、フラットであり、「正しい」映画だった。
それぞれの女性たちが抱える怒りや恐怖、赦しと愛、自立と不安といった感情を、
丁寧に並列に描いている。
ただ、作品としてはやや理知的すぎたようにも感じた。
本作は、ジェンダーに関する多様な意見や叫びを、
できる限りバランスよく扱おうとしている。
一方的なメッセージを押し付けるのではなく、
それぞれの登場人物の意見を対等に並べていくことに重点が置かれている。
だからこそ、映画としての熱量は抑えられ、
感情的な爆発よりも、論理的な議論の流れが重視されていた。
「選択」を迫られる女性たち——どの意見が正しいのか?
この映画の核となるのは、
女性たちが、時間内に1つの選択をする必要があるという状況だ。
映画の中で、彼女たちは3つの選択肢を議論する。
何もせず、今まで通り生きる
戦う
村を出て、新しい生き方を選ぶ
どの意見が採用されるかが重要なのではなく、
むしろ「どの選択肢にも一理ある」ということが強調されていたように思う。
この構造は、映画自体のスタンスを反映している。
本作は、何が「正しい選択」なのかを決めつけない。
むしろ、「選択すること」そのものの難しさを描いている。
これは、最後のエピローグのメッセージにも表れていた。
映画は結論を示すのではなく、
「彼女たちが自分たちの意思で選択した」という事実を淡々と見せる。
「Empathy」とは、立場を超えて対話すること
本作のテーマの一つに、Empathyの持つ複雑さがある。
この映画に登場する女性たちは、
一つの問題に直面しながらも、全員が異なる考えを持っている。
怒りと復讐を求める者
愛する家族を置いていくことに迷う者
神の赦しを信じようとする者
戦うことよりも、生きることを選ぶ者
それぞれの立場には、
それぞれの「正しさ」があり、
それぞれの「痛み」がある。
しかし、彼女たちは互いの考えを完全に否定することはしない。
徹底的に議論を重ね、
異なる視点を持つ相手に耳を傾ける。
このプロセスこそ、Empathyの本質ではないだろうか?
Empathyとは、単に「相手を理解すること」ではない。
相手の立場に立ち、その視点を尊重しながら、自分の意見も持ち続けることだ。
本作の女性たちは、
それぞれが抱える葛藤を乗り越え、
互いの違いを受け入れながら、共に新しい道を選ぼうとする。
「女性」というより「人間」の物語
本作は、単に「女性の権利」を訴える映画ではない。
むしろ、「人間の持つ多様な感性や意志、矛盾」を描いた作品だと感じた。
女性の持つ、
強さと弱さ
寂しさと愛
自立と不安
赦しと怒り
これらは、何も女性だけの問題ではない。
人間が生きる上で避けられない感情の衝突であり、
どの社会、どの時代でも起こりうる対立だ。
この映画が提示しているのは、
「対話を通じて、どうやって共存するか?」という問いだ。
最終的に彼女たちが選んだ道は、
「全員が納得できるもの」ではなかったかもしれない。
だが、それでも彼女たちは、
お互いの思いを汲みながら、自分たちの道を選んだ。
『ウーマン・トーキング』が示す、Empathyの未来
この映画を観て、考えさせられたのは、
「Empathyの限界」と「Empathyの可能性」だ。
現代社会でも、ジェンダーの問題は避けられない。
しかし、意見が異なる者同士が建設的な対話をすることは難しい。
SNSでは、「正しさ」を主張する声が飛び交い、
異なる立場の人間を理解しようとする余裕が失われつつある。
そんな中で、本作の女性たちの議論は、
「Empathyを持ちながら、意見を交わすことの大切さ」を思い出させてくれた。
対話し、議論し、考え続けること。
それが、何よりも重要なのではないか。
『ウーマン・トーキング 私たちの選択』は、
「Empathyを持つことの難しさ」と「それでも対話を続けることの大切さ」を示した作品だった。