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欲望に忠実であることは、自由なのか?|映画『レディ・マクベス』

一線を越えた者は、どこまで堕ちるのか——加速する狂気

『レディ・マクベス』を観て、人間が「一度ハメを外すと加速度的に狂っていく」ことを強く実感した。
序盤、主人公キャサリン(フローレンス・ピュー)は、
支配的な夫とその家族に囲まれ、静かに耐える女性だった。
だが、彼女が一度「欲望に正直になる」ことを覚えた瞬間、
彼女の世界は変貌し始める。

最初は小さな逸脱だった。
夫の留守中に使用人のセバスチャンと関係を持つ。
禁じられた愛に足を踏み入れた彼女は、
次第に「手に入れる快感」と「支配する快感」に溺れていく。

ここで興味深いのは、彼女の服装の変化だ。
映画の冒頭では、青のドレスをまとい、どこか無垢な印象を与える。
青は「静けさ」「忠実さ」「内省」の象徴でもある。
しかし、彼女の行動が大胆になるにつれ、その青の美しさは次第に異様なものに見えてくる。

「秘めた思い」こそが人を引き付けるのではないか?

彼女は最初こそ、抑圧された存在でありながらも、その静かな強さが魅力的だった。
しかし、自らの欲望を制御することなく解放し、
他者を支配することに快楽を覚えるにつれ、彼女の「美しさ」は変質する。
欲望に忠実であることが必ずしも「自由」ではなく、
むしろ「堕落」であることを、彼女自身が証明してしまうのだ。


利己的な欲望はどこまで膨張するのか?

キャサリンは、一つのルールを破ったことで、
「何も恐れない」存在へと変わってしまう。

  • 夫の家族を毒殺する

  • 自分の不貞を隠すために平然と嘘をつく

  • 最後には、邪魔者を排除することすら躊躇しない

最も恐ろしいのは、彼女が完全なモンスターに変貌する瞬間がないことだ。
彼女は、常に冷静で、堂々としており、
ポーカーフェイスのまま、すべてを手に入れようとする。

これは、ただの狂気ではない。
「抑圧からの解放」が、「支配への渇望」へと変わってしまった結果なのだ。


『レディ・マクベス』の本質——欲望は、解放するものなのか?

この映画は、単なる「女性の抑圧と解放」の物語ではない。
むしろ、「解放された欲望はどこへ向かうのか?」という問いを投げかける。

  • 彼女は本当に自由になったのか?

  • それとも、彼女自身が「新たな支配者」になっただけなのか?

『マクベス』というタイトルが示す通り、
彼女の物語は、シェイクスピアの『マクベス』に通じる。

マクベスもまた、一つの罪を犯したことで、
それを取り繕うために次々と罪を重ね、
最終的には破滅へと向かっていく。

キャサリンの結末は、「自らの力で自由を勝ち取った」と言えるのか?
それとも、彼女はただ「モンスターへと変貌してしまった」のか?

この映画は、観る者にその答えを委ねている。

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