映画「デリカテッセン」-出産のメタファー
映画「デリカテッセン」を観てきました。
久々によくわからない映画でした。笑
明快なメッセージはなく、常によくわからない謎の映像が流れる。だけどそれでいて何かを感じさせてきている気配はあり、考察をするという観点で言えばとても面白い映画だったと思います。
物語を通して、「こういう意味か、、?」「いやそれだと辻褄が合わないな、、」と頭をひねる時間が多かったです。
理解を進めるためにいろんな記事やNoteを読みましたが、結局ピンとくるものはなかったので、ここでは僕なりの考察(といっても半分直感)をメモしておこうと思います。デリカテッセンを観た方には、この仮説以降の考察は任せたい気持ちです。笑
出産のメタファーとしての「デリカテッセン」
結論、「出産のメタファー」として解釈すれば色んな辻褄が合うのではないかと考えています。
それらしい描写はいくつか散りばめられていると思います。
ラストの浴室で溜めた水を放出し人間を流すシーンはまさに出産のメタファーと捉えられる:主人公と女性のキスシーンも単体だと意味不明だが、男性性と女性性の結合というメタファーなら納得する)
代表的な男性性、女性性的なキャラ描写が強調されていた:
・店長はヘゲモニー的男性性(最後に淘汰されるのは映画の主張?)
・地下の群れる菜食主義的弱者男性像(任務では2回とも女性を間違えて捉えるのも意味深)
・遊びと勇気のある主人公(理想的な男性像?)
・どうやっても自殺できないヒステリックな女性(これを代表的な女性性というと怒られそうだけど)
・やたら魅惑的な赤いドレスの女性
・生真面目で勇敢な女性(これも理想的な女性像といいたい?)道管や水気の多い描写はなんとも体内的:あそこまでパイプラインやびちょびちょ感を強調させる意味が他にはない
2つの並んだ蛇口をひねると、隣の蛇口から水が出る:人体もこういうの多いですよね。右目が左脳に繋がってるとか
「交換」をするシーンが多かった:肉と豆の交換、肉と色気の交換、郵便物とセクハラの交換?、クッキーと紅茶によるおもてなしと花束の交換、任務とひよこ豆の交換などなど。これらの「交換」は人体におけるそれを彷彿とさせる気がしました。酸素と二酸化炭素、栄養と老廃物など。
子供が銃口に白い液体をそそぐシーン:意味深。やたらじっくり描写する必要性が他にない。
建築がやたら有機的だった:階段室は四角というよりは多角形的だった。
上下階の差:確かヒロインが一番上に住んでいた(=卵管?)、地下に住んでいたのは地底人(=弱者男性?)。
キャラの意味づけと人体機能:キャラ1人1人には意味づけがあった気がした。赤い毛編みをする老婆は血液や赤血球の象徴?、カエルに囲まれた攻撃的な男は免疫系の何か?、店主は食料を加工するという意味では口や消化器系の何か?、メガネやまんまるに目を見開くシーンの多かった女性は目や視覚の象徴?
霧で覆われた建物はそれだけで1つの独立した何かを連想させた:1つの閉じた人体だとしたら意味が通る。
つまりは人体と性をモチーフにしたようなキャラ・シーン・建築が多くあった。
そう捉えると、ラストの子供と主人公たちが屋上で楽器を奏でるシーンでは、主人公たちよりも子供たちの方が上に配置されていた点が世代の位置付けを意味しているようにも感じるし、
こちらのポスターでは、豚を本来食料となるはずだった主人公、目を見開いた男をメガネや大きく見開いた目が強調されていた女性として解釈すれば、「2人の男女の出会い」として捉え直すこともできる。
まとめると、「出産のメタファー」として捉えた場合、作中の意味深なシーンや意味づけの多くの辻褄が合うように感じます。
それでも「出産のメタファーが合ってるとして、だからこの映画はなんだったんだ」という疑問が残りますが、素直に考えれば理想的なジェンダー観の主張でしょうか。特にヘゲモニー的男性像は作中で唯一ちゃんと葬られていました。それだけのためにこんな込み入った映画を作ったのかと考えると、まだ先がありそうな気もしますが。