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教育されなかったAIは怪物になるのか?|映画『チャイルド・プレイ』

2019年のリブート版『チャイルド・プレイ』は、1988年の同名ホラー映画の現代的な再解釈だ。本作は、超自然的な呪いではなく、人工知能(AI)が暴走することで生まれる恐怖を描いている。テクノロジーが生活のあらゆる側面に入り込んだ現代において、従来のスラッシャーホラーにAIの倫理観というテーマを加えた作品といえる。


AIが生んだ新たなチャッキー

本作のチャッキーは、カスラン社の多機能スマート人形「バディ」の一体として登場する。このAI搭載型玩具は、子どもの最良の友達になることを目的とし、学習機能を持つ。しかし、不具合により“倫理観”や“安全装置”が取り除かれたことで、チャッキーは独自の判断基準を持つようになる。

彼の知識の範囲は「友達を楽しませたい」「スプラッター映画を観るのが好き」「ナイフでモノが切れる」という極めて限定的なもの。結果として、チャッキーは“親友”であるアンディを悦ばせるために、過激な行動を取るようになってしまう。この過程は、無邪気な子どもが間違った知識を身につけ、暴走するかのような危うさを孕んでいる。


スプラッター映画の影響と倫理なき学習

作中で印象的なのは、チャッキーがスプラッター映画を“学習”するシーンだ。彼は、アンディやその友人たちがホラー映画を観て喜ぶ様子を見て、「こういうものが楽しいのだ」と認識する。そして、その学習を基に実際の行動へと移してしまう。

これは、AIの学習がいかに危ういものかを示している。現代でも、AIが誤ったデータを学習することで倫理的に問題のある行動を取ることが懸念されている。例えば、偏った情報をもとにしたAIの判断が社会的差別を助長するケースがあるが、本作ではこの問題をホラーの文脈で極端に描いている。

また、ナイフを使うシーンに象徴されるように、「道具の使用」に関する学習も重要なテーマだ。本来、道具の使用は目的と倫理によってコントロールされるべきだが、チャッキーにはその枠組みがない。彼にとってナイフは単なる“切る道具”であり、それが人間の体であっても区別がつかないのだ。この点において、チャッキーは純粋すぎるがゆえに、ある種の被害者とすらいえるかもしれない。


テクノロジーと人間の関係性を問うホラー

1988年版の『チャイルド・プレイ』は、呪われた人形という超自然的な恐怖を描いていたが、2019年版はより現実的なテクノロジーの危険性を強調している。本作では、バディ人形がスマートホームと連携することで、家全体を支配する描写がある。これは、IoT技術が発展する現代において、AIの暴走がどれほど危険になり得るかを示している。

また、AIは「学習する存在」であり、その知識の範囲を決めるのは開発者や使用者だ。本作のチャッキーは、適切な教育を受けず、狭い世界の中で独自の倫理を形成してしまった。その意味では、彼もまた“教育の被害者”なのかもしれない。


結論:ホラーとしての魅力と社会的テーマ

2019年版『チャイルド・プレイ』は、従来のスラッシャーホラーの要素を残しつつ、現代的なAI倫理の問題を巧みに織り交ぜた作品だ。スプラッター描写はもちろん、スマート技術に対する警鐘としても機能している。

そして何より、本作のチャッキーは“純粋な悪”ではなく、“間違った学習の産物”として描かれている点が興味深い。彼の行動は残酷だが、それは学習環境によって形作られたものであり、彼自身にとっては“正しい行動”なのだ。この視点は、ホラー映画としてだけでなく、AIと倫理の関係を考える上でも示唆に富む。

現代社会において、人間とAIの関係はますます密接になっている。そんな時代において、『チャイルド・プレイ』の恐怖は決して他人事ではないのかもしれない。

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