暗闇で、お米と愛を噛み締める|『一粒』体験
真っ暗闇の中で食事する体験。暗闇の中では、大切なことがよく見えた。
前回は別の会場で「運動会」がテーマだったけど、
今回は茶室での「食事」がテーマ。
前回の体験があまりにもよかったので、その日のうちにダイアログシリーズの別体験を予約した。視覚障がいのある方にアテンドされながら、その場に居合わせた人たちと真っ暗闇の中で遊ぶ。
視覚障がいのあるアテンドの見え方が変わった
今回も視覚障がいのあるアテンドの方がついてくれた。
明るい空間で挨拶したとき、まず目が青白くなっていることに気がついた。
前回のアテンドの方は割と目を閉じていたので気が付かなかった。
だが、この一瞬以外、アテンドの方が障がいがあるということを考えていなかった気がする。そこが今回の不思議な点だった。
2回目のダイアログ体験だからか、暗闇の中での彼らがあまりにも心強いからか、はきはきと話すその姿からか。全部な気がする。
ダイアログではむしろ僕らが介助される側になる。
弱さの性質は変わり、むしろ目が見えない状況に慣れている彼らの方が圧倒的によく動ける。
僕らは介助されるべきお客さんであるし、
彼らは気づきといい時間を与えてくれる、頼もしい提供者だ。
サービスや体験として与えてくれる人に負んぶに抱っこになることは、他の優れたサービスと変わらない。その点において、僕は彼のことを心の底から当たり前の様に依存して楽しむことができた。
障がいがあっても生きがいを感じること
アテンドの彼は途中こう言った。
「僕はこの仕事が大好きでして。ここでは僕は、人に気づきを与えることができる。」
本当にその通りだった。暗闇の中で手を取り合い、歩き、共に食事をする中で、僕らはいろんなことを学んだ。
食事のありがたみ、人の存在自体に救われることがあること、声で感情が伝わること、立場が変われば弱さの意味が変わること。
彼はダイアログシリーズがなかったら、「大好き」と言える仕事には出会えていなかったかもしれない。目が見えなくたって、楽しい体験を創り上げ、人に多くの気づきを与え、生きがいを感じられる仕事につくことはできる。
ダイアログシリーズはその意味で、障がいのある方をどれだけ救うことができたのだろう。
同時に他の取り組みも思い出した。
ヘラルボニーは知的障がいのあるアーティストの晴れ舞台を拡張した。
オリィ研究所は表に出れない人が人と繋がれる機会を作った。
普通は「普通」の働き方ができない人でも、
クリエイティブやビジネスやテクノロジーを掛け合わせることで、むしろより良い価値を生むことができる機会をつくることができる希望がある。
そもそも価値を作らなくてはいけないという強迫観念の側面はさておき、
資本主義においては「価値のつくりづらかった人が価値を作れる仕組みをつくる」というアプローチはとても理にかなっている。
関連して、精神障がいのある方のそう言った事例はないのかなと思った。
一番「仕事」と相性が悪い気もするし、むしろ「仕事」が問題の原因といわれるケースもあると思うが、やはり「仕事」を通して人の感じる生きがいと、得られる金銭の意味はとても大きい様に思う。事例は探す、無いなら、創りたい。
障がいのあるなしに関わらず、助け合うこと
本来は障がいがあってもなくても、助け合うことが社会の基礎だったはずだ。
確かに障がいがある人は、人から助けられる機会は多いだろう。
そのせいで、自分ばかり助けられて、、とか
迷惑だと思われたく無い、、とか思ってしまうこともあるだろう。
だが障がいがない人間だろうと、弱さはあるはずだ。
コーチングをやっているとよくわかるが、人は潜在的に「ほんとうはもっとこうしたい」というものを無意識に諦め、自分の中に押し込めたままにしている。
それを取り出して、苦労を取り戻し、自分の言葉で語ることができたら。
アテンドの彼はこう言っていた。
「僕は昔、人から助けられることがとても嫌だったんですよ。」
「皆さんは外の世界では僕みたいな人をよく助けてくれますけど、助けられることが苦手っていう人、案外多い気がします。」
「でも今は人から助けられたら、助かりました!ありがとう御座います!って素直な気持ちで言える様になりました。」
ああ、もしかしたら彼から「障がい」を感じなかったのはこのせいかもしれない。
つまり彼は自分の弱さを隠すことなく、他人との助け合いを前提に生きている。
彼はそう言った意味で、真に自立して生きている。
助けられることに卑屈になることはある意味、「助けられる対象」に対して情けないとか弱いといったレッテルを貼る行為を認めている。
彼は助けられたら嬉しい、ありがたいと心で噛み締める。
人を助けられることを大好きだ、と愛しむことができる。
暗闇の中で食べたほんの一握りのお米のように、
僕らも享受することの価値、与えることの価値をもっと慈しむことができるかもしれないと思った。