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審判人生を振り返る(後編)

前編では過去に経験した公式戦や研修会について
中編では選手ではなく審判を選んだ理由について

それぞれ振り返りました。最後となる後編では

「なぜ1級審判員を目指す人間が移住と農業を掲げ
るクラブのマネージャーになろうと思ったのか?」

についてここに至るまでの経緯と合わせて綴ります。

今回は説明が回りくどく読んでいて何が言いたいの?
と感じることもあると思います。ストレスを感じた方は
そっと記事を閉じていただきますようお願いします。


先ず南紀オレンジサンライズFCに携わりたいと思った
一番のきっかけは「休止中の審判活動の復帰に向けて
サッカーに関わりながら生活の土台を作りたいと考えて
いた時期に興味のあった"移住"して"農業"をするという
あまりにも魅力的なサッカークラブだったから」です。

※こちらのコラムにはもう少し詳しく書いているので
読んであげても良いよと言う方は是非ご一読ください!

誤解を恐れずに本音を言うならばマネージャーに
なるためにクラブに携わったわけではありません。

審判活動に復帰するために紅白戦・練習試合・公式戦
の帯同審判でサッカーの感覚を取り戻すいわばリハビリ
を裏方としてチームに貢献しながらできるのではないか

また、審判だけで生活することは現実的ではなく今後の
人生を梅農家という農的暮らしで生きていくことを実現
すること。この二つの目標が1級審判員を目指す人間が
新規立ち上げクラブのマネージャーになった理由です。

決してマネージャーに興味がなかったということはなく
元プロ審判員の家本政明さんがJクラブのスタッフを
されていた過去があったり、漫画ジャイアントキリング
が好きでクラブのフロントの仕事に対して憧れもあり、
今後のサッカー人生において貴重な経験ができました。

※このコラムでは初めて農業に触れた感想と就農する
決心について書いたのでこちらも是非ご一読ください!


ではここからは「現在に至るまでの経緯」と中編の最後
に書いた「復帰して審判活動を続けたい理由」について
長くなりすぎない程度にお伝えできればと思います。

中編で気づいたら好きになってたと言った審判ですが
一番下の審判資格の4級を取得したのは中学2年生です。

中学高校では皆んなが嫌がる練習試合の副審を進んで
やっていたのでチームメイトからは自分がいる日は
ジャンケンしなくていいとありがたられてました(笑)

高校2年時に3級を取得しユース審判員(若い内から本格
的に審判活動をする中高生)として部活を離れ選手か審
判どちらに専念するか選択を迫られた時期もあります。

しかし、顧問・両親・サッカー協会の人と相談をして
高校サッカーでしか得られない経験や青春は審判活動
にも活きると言われ引退まで続けることに決めました。
今振り返っても引退まで続けて良かったと思ってます。

本格的に審判活動をスタートしたのは大学からです。
20歳で2級を取得しそこからは自分でも何が起きてる
のか分からないほどのスピードで、21歳になる頃には
2級トップカテゴリーに昇り詰めることができました。

とんとん拍子で1級審判員になるための候補を選ぶ大会
にも選出され、もしかしたら1級になれるかもしれないと
実力以上の評価を受け感覚がおかしくなるほどでした。

結果的にその審査では落選し1級候補に入ることは叶い
ませんでした。ですが翌シーズンも好調の勢いは維持し
このまま行けば…というタイミングで精神的な体調不良
を起こし突然、審判活動を休止することになりました。

※詳細についてはあまりにもプライベートな内容のため
省略します。下書きで全て書き出して迷ったのですが
SNS上に公開するには値しないと判断してやめました。

話は戻り22歳の夏に休止してから1年後に復帰を果たし
ますがまたすぐに休止し途方に暮れていた頃に突如、
目の前に現れたのが南紀オレンジサンライズFCでした。

このチャンスを逃すまいと必死にしがみつき選手がまだ
1名しかいない頃からクラブに携わることができました。

そのおかげでコラム掲載・新聞取材・ラジオ出演など
審判だけを続けていたら見えなかった世界をクラブを
通じてたくさん知れて、マネージャーを辞めてから
和歌山に定住し梅農家としての生活を送っています。

※画像をタップすると紀伊民報の記事に飛びます。

長くならない程度と言いつつ長くなってしまいました。
ここまでお読みいただいた方は私の審判に対する異常
なまでの拘りが少しでも理解いただけたかと思います。

最後に「復帰して審判活動を続けたい理由」それは…
「審判服を着てピッチに立つ自分が好きだから!」

これに尽きます。試合中どれだけ文句を言われて嫌な
気持ちになっても続けられる自分のモチベーションは

「より高いカテゴリーの試合を担当しスタンドのある
スタジアムや天然芝のグラウンドに足を運ぶこと。」

です。また審判は誰よりも近くでサッカーを観ること
ができる言うなれば1番の特等席だと私は思っています。

なので復帰するタイミングが来てそこから1級審判員に
なることができなくても、生活の一部に審判があれば
それで良いと今は思えるようになりました。そう思えた
のは外からサッカーを観る期間があったからこそです。

おまけにこれまでで最もやりがいを感じた瞬間を紹介
し前中後編までにもなった振り返りを終わりにします。

1つ目は担当する試合に昔のチームメイトが出場しプレー
では敵わなかった相手と同じ舞台で再会できた瞬間。

2つ目はスタジアム開催の試合前フィールドチェックの
際にスタンドから名前を呼ばれ振り向くとこれまた昔の
チームメイトが気づいて声をかけてくれたときは何もの
にも変え難いやりがいを肌で感じた最高の瞬間でした!


まさかまさかの2,500文字を超えてしまいました…。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。

2級審判員の裏側が少しでも伝わっていれば幸いです。

仕事と両立が難しいような書き方になっていますが、
そんなことは決してなく中には公務員をしながら
J2リーグを担当する2歳上の先輩も既におられます。

目標は30歳を目処に審判の現場へ戻ることです。
そのためには梅農家として生活の土台を確立し
体力を戻すトレーニングをしなければなりません。

他にも移住をしてやりたいことはたくさんありますし、
noteでは競技規則について新たな発信をしていきます。

是非いいねフォローのほどよろしくお願いします!
最後まで読んでいただきありがとうございました。

2018/01/14(当時21歳)@宝ヶ池公園球技場

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