twitterアーカイブ+:映画『ミュウツーの逆襲 EVOLUTION』感想
「ミュウツーの逆襲EVOLUTION」を観てきた。ミュウツーの逆襲だった。意外なほどにミュウツーの逆襲。ミュウツーの逆襲を知る人でこれから観る人は安心してよい。「脚本 首藤剛志」と書くだけのことはある。
だが、EVOLUTIONがミュウツーの逆襲に何か新しい価値を付け加えたかと言えば、そこはまだ私もはっきりとは分からない。市村正親氏の今の演技を聴くことができた、というのは新しい価値の一つではある。今も昔も、ミュウツーの声は実に素晴らしい。
映像については、3DCGになった分情報量が増え過ぎて、どこに着目すればよいのか分かりづらくなっているという見方もできる。ライムシティのような眺めて楽しむポケモン絵巻とは違って、これはメッセージ性の強い作品であるから、視線の散逸は手放しでは褒められない。
人物の顔については、もう少し大人びた感じの方がよかったのではないか。3Dはアニメの記号体系をそのまま適用して見てはもらえない。そこに、肌の滑らかさと鼻の低さによって過剰に幼く見え、それが声とのミスマッチを起こしている。アニメを3Dに焼き直す際の印象の調整は今後も広く課題になるだろう。
ポケモン映画は、脚本の良し悪しに関わらず音楽がコケることはほとんどない。今回も音楽はいい仕事をした。嵐の海のシーンではサン・ムーンの野生ポケモン戦の曲が流れるが、私はあれでよかったと思う。ただ一箇所、受け入れ難いBGMの変更がある。どこかは観ればすぐに分かるはずだ。理解に苦しむ。
また、一点、些細なようで大きな変更がある。それはミュウツーの表情だ。「随分と躾の悪いリザードンだな」「あの嵐の中を、帰れればな」の時の表情を、1998年版と見比べてみていただきたい。1998年版はひたすら静かに諦めを漂わせるが、EVOLUTIONは怒りや嘲笑を露わにする。
このことの是非については、もう一度首藤コラムを読み直してから改めて論じた方がよいのかもしれない。ミュウが介入する前のミュウツーの感情を読み解くことは、ミュウツーの苦悩が果たしてどのような種類のものかを細かく読み解くことに繋がる。
そもそも、1998年に作られた「ミュウツーの逆襲」のあの脚本、もちろんテーマは普遍的なものだが、首藤剛志は「メッセージを台詞で言わせてしまう脚本家は三流」という信念を持っていたし、SNS映えする台詞を今か今かと待ち構えている現代の観客に果たしてどれほど理解されるのだろうか。
また、この映画の主題の一つにして首藤剛志が初めてポケモンの世界に持ち込んだ毒である「ポケモンは下僕か隣人か?」というテーマは、この二十二年の間に陳腐化してしまった。「技など使わず体と体でぶつかり合う」という言葉は、「ほっぺすりすり」までもが技となった今では、一見、意味不明である。
この言葉は「トレーナーの命令によらず」と解するべきだと私は思うし、仮にこの場にゴースやマルマインでもいた場合には「体」の定義から問うことになる(「物理攻撃に限る」という定義は破綻する)。当時は、「トレーナーの命令なしに」「殺すつもりで」ポケモンが戦うという描写は衝撃だったのだ。
このことは、ポケモンは(田尻智の想定したような)昆虫採集の昆虫やペットの犬に留まるものではなく、自我を持った隣人であることを印象付けるものだったが、今回もそれを狙うなら、ジョーイさんの「生き物は、体が痛いとき以外は涙を流しません」の台詞は残しておかなければならなかった。
このジョーイさんの台詞がなければ、あの「奇跡の涙」はともすると(3DCG=ピクサーの後追いというイメージとも相俟って)ご都合主義のお涙頂戴と受け取られかねない。このあたりは1998年当時も誤解する人は多かったはずだが……
さらにいくつか下らぬ話をするとすれば、「クリア湖のカットは蛇足」「博士の残したビデオ、ミュウをどこで見つけたと言った?」「タケシはああいう奴なのでポリコレ厨は黙っていろ」くらいのことになるが、まあこれは本当に些細な話。
ともあれ、ミュウツーの逆襲EVOLUTIONなのだった。ポケモンの長い歴史の中にひときわ深く、このような思索の痕が刻まれていることを誇りに思おう。
〈以上〉