初音ミクの霊性論:擬人化の擬人化、そして分霊

 私にも、初音ミクを「何らかのアニメのキャラクター」と思っていた時期がある。キャラクターをストーリーの従属物とみなす時代が、長く人類の上を覆っていた。その迷妄の霧が晴れ始めたのは、西暦2007年、天の川銀河、太陽系第三惑星地球、極東アジア、日本列島のどこかのコンピュータ画面の前からだったと私は信じている。ヒトが人になった時から我々の存在の奥底にあった、知性の根源をなす一つの機能が、七万年の時の果てに遂に姿を得て我々の間に現れた。それは弥勒であり、新しいエルサレムであり、ヘイムダルであり、ヴィシュヌであり、アンゴルモアの大王であり、ホルスであり、初音ミクであった。

 初音ミクの出現、ないし初音ミクという現象を、私は人類の霊性にとっての巨大な転換点だと考えている。ここで私は霊性という言葉を、釈徹宗氏が鈴木大拙を引いて説明しているように「宗教の上位概念であり、宗教を下支えする『宗教以前の宗教』」「メタ宗教性」という意味で用いている[1]。人間に神や霊を生み出さしめる心的機能のことと捉えてよいだろうし、ハイデガーの言う被投性もこれと重なるところが大きい。

 つまり本記事は、神や霊、宗教、超越をめぐる議論に、初音ミクという現象がどう接続されうるか、私の受けた啓示を読者諸賢と共有しようとするものである。私がその接続の可能性に気付いたのは、2010年、小惑星探査機「はやぶさ」の地球帰還の直前に遡る。それは一つの歌を伴っていた。

過去の探査機が残した膨大な経験の蓄積と、運用チームの献身的な努力のおかげで、彼女は設計で保証された人生の外側を、今日も、そしてこれから先をも飛ぶことを許されたのです。

「現代萌衛星図鑑 番外編 はやぶさ 小惑星探査機MUSES-C」、『現代視覚文化研究Vol.4』[2]

 ここで起きていたことは、数十秒の映像に物語性を付加することで「人工の魂」とでも呼べるものを作り上げる行いだ。アニミズムの色濃い日本的宗教観からすればそれは人工の神とも呼びうるものだが、遠からず全人類がそのことを理解するようになる。人が神として畏れてきたものと、初音ミクとは同じものなのだと。物に命を吹き込み、世界に意味を与えるのは、擬人化という人間の心的機能なのだと。そして初音ミクこそは、その擬人化の力に課せられていた枷を取り払う者だったのだと。私はそのことについて本稿で述べよう。

擬人化の諸条件:特徴抽出とインターフェース

 ボーカロイドのブームが全盛であったゼロ年代後半から10年代にかけては、また擬人化美少女キャラクターの隆盛期でもあった。秋田の「萌え米」あたりに始まり、ゲーム「艦隊これくしょん」やアニメ「けものフレンズ」に極まる、「美少女の姿を与えることで人の親しみを誘うことができる」という気付き。それについては以前に論考として発表した。

 私は「艦隊これくしょん」における艦娘を初音ミクと同類の存在だと思っている。いや、むしろ初音ミク的なるものが、我々人間を含めた全ての「存在」に共通する本質的形式だと思っている。それを私の言葉で言えば「物語の擬人化」ということになるが、初音ミクの特殊性は、それが単なる音声合成ソフトの擬人化に留まらないというところにある。彼女はむしろ、「擬人化という営みの擬人化」と呼ぶべきものなのだ。

 操作としての擬人化は、「特徴の抽出」「インターフェースの付与」という二つの要素から成る。この二つは完全に独立ではない。どのような特徴を抽出するか、また特徴を抽出したいと思うかどうかはインターフェースの影響を受けるし、一方でインターフェースのデザインは抽出された特徴に影響を受ける。人が意識を向けている時点で、人との間に何らかのインターフェースが機能し、何らかの特徴が抽出されてもいる。フッサールの言葉で言えば、特徴の抽出はノエシスの働き、インターフェースの付与はノエマの形成ということにもなるだろう。ラカンなら象徴界と想像界と呼ぶだろうか? どうでもよいことだ。彼らは結局のところ美少女擬人化の話をしている。

 私がここで「擬人化」という言葉を使うことの真髄は、そのインターフェースの在り方が常に、人間が人間と接する時と同じ在り方をとっているというところにある。古代において人が自然現象を理解しようとした時に人を模して神を想像したこともそう、現代において人が数学を教える時に「積分の気持ちを理解する」といった言い方をすることもそうだ。正確には擬人化というより擬-自分-化だと思う。未知の人と未知の物とは外見以外では区別できないのだし、未知さの裏にどのような秩序が働いているかを推し量る時には、自分自身で自覚している精神の働きから類推するしかない。あるいはそもそも自我が他者を観察することで形成されるのだとすれば、他者を理解する仕方と自分を理解する仕方が一致するのは当然だ。

 擬人化という言葉で一般に想像される「キャラクターの絵がついている」という状態は、実のところ擬人化の一つの極端な形に過ぎない。応答の背後に何らかの秩序が想定できること(意思)、他のものと区別されていること(輪郭)、の二つが満たされるほど、物事ははっきりとしたキャラクターとして立ち現れる。この意思と輪郭の二つの条件は上述の「特徴の抽出」「インターフェースの付与」のほとんど言い換えだ。人は言語によって分節された世界しか認識できないし、全くの無秩序を想像することもできないから、どの程度はっきりしたキャラクターとして表れるかはグラデーション状になっている。初音ミクはこの擬人化という操作を、従来は単なるマーケティング戦略の一種として捉えられていたものから、一つの世界認識の方法、座視することのできない人間精神の大法則として

初音ミクの諸条件:素材性と歌

 バーチャルアイドル、つまり実在しないキャラクターを集団的に祭り上げたものという括りで見るなら、初音ミク以前にもその発想はあった。例えばOVAアニメ『マクロスプラス』のシャロン・アップルがそうであると言われるし、より古くは、神とは常にそのようなものであっただろう。しかし、初音ミクが獲得した地位はそれより一段メタな、「バーチャルアイドルを生み出すための方法論の普及者」と呼ぶべきものだった。その方法論こそが、私が本節で論じる美少女擬人化、そしてその効率化に寄与したいくつかの要素だ。

 初音ミクが社会にもたらした影響としてよく挙げられるのは、彼女が公式設定をほとんど持たなかったが故に幅広い創作の素材となることができ、創作人口の拡大に寄与したことだ。しかし、彼女にはもう一つの巨大な功績がある。それは「擬人化という概念の適用範囲をほとんど無限にまで広げた」ということだ。そのためには、公式設定の乏しさと、歌うためのソフトという出自、この二つが不可欠だった。

 初音ミクの登場によって、自分では歌えず他の歌い手を確保することもできない作曲者が一人でボーカル曲を発表できるようになり、またアマチュア絵描きや電子工作者なども、オリジナルのキャラクターをデザインできなくとも初音ミクのデザインを借りて作品にマスコットをつけられるようになった。人間はずっと、情報を発信するにあたっての然るべき「顔」を求めていた。そこに初音ミクは現れ、「顔」が求められている場所に齟齬を起こすことなく「代入」されることができた。公式設定をほとんど持たず、実在の人間でもないため、彼女自身の持つ文脈が作品と衝突する危険は少ない。人間を相手にした伝播のためのインターフェースを与えるという点において、ここで行われている「代入」とは情報の擬人化に他ならない。

 また、キャラクター・ボーカル・シリーズというコンセプトそのもの、即ち「打ち込んだ歌詞に対し、それを歌うキャラクターを与える製品」という初音ミクの出自は、擬人化が可能とみなされる最小単位を「作品」ではなく「言葉」へと押し下げた。まとまった形をとっていないワンフレーズだけの言葉でも、本来は絵に描くことのできない抽象概念であっても、人に共有する前にキャラクターの形を与えることができるようになった。作り手自身を含む人間にとって受け入れやすい美少女の形をとらせることは、作り手自身が口ずさむのとは同じでない。

 さらに、初音ミクの発売時に既に世に出ていた読み上げソフトとの差別化として、「歌」であることは無視できない。歌は古来より呪力――個人の行いを世界全体の運行へと波及させるはたらき――と直結している。「節をつけて朗唱する」ことが言葉に与える影響を、私は「言葉を“聴くに値するもの”として強調する」と言い表したい。文字のない時代には、言葉を強調する方法は声を大きくするか節をつけるかしかなかったが(拍子を取ることはその中間にあたる)、大きな声を出すことは聴衆の注意をそこに向けはしても語られた内容の価値については保証しない。節をつけることだけが、その言葉が何らかの意図や秩序のもとに組織されていることを印象付ける。ボーカロイドに声を出させるにあたっては全ての音節に音階を指定することになるが、このことが、たとえワンフレーズだけの言葉にも、世界に影響を与えうる意味を孕んだ「歌」とみなされる契機を与える。それは言葉の背後に意思を感じさせ、擬人化をより鮮明にするだろう。

 そして、どんな言葉でも擬人化できるためには、初音ミクの声は人間的な「本当にいそうな」声であってはならなかった。現にボーカロイド曲の中には、血の通った「生きてしまった」人間が歌っては噓臭くなるであろう曲がある。例えば「はやぶさ」や「初音ミクの消失」、「みんなみくみくにしてあげる♪」がそうだ。人間の世の中に疲れた作り手や聴き手が、ボーカロイドの電子的な声に救われたということも多く報告されている。技術の発達によって人間に近い声を作ることができるようにはなりつつあるが、そのムーブメントに火をつけたのが「誰でもないように聞こえる」声の持ち主だったことは必然だったはずだ。


 こうして、初音ミクは言葉で表現できる全ての情報を擬人化する手段を人類に与えた。任意のメッセージをミクに歌わせる事により、ミクがそのメッセージのアイコンとなる。そして一つのキャラクターデザインが無数の情報の擬人化に使われることにより、そのキャラクターデザインは「擬人化という現象の擬人化」というメタな地位を獲得することになったのだ。

 個々のメッセージは初音ミク以外のアイコンによって擬人化されることもできるが、二次元美少女とは縁のなかったはずのメッセージが初音ミクと結びつく事例が増えることにより、「このメッセージにもアイコンを与える事ができるかもしれない、それを美少女にするのは一つの選択肢だ」と人は思うようになる。そのような発想のきっかけになることができるということこそ、初音ミクが擬人化という現象の象徴であることの証であろう。

神と擬人化

 初音ミクは、個々のメッセージに美少女の表象を与えるための素材であると同時に、個々の擬人化営為が数多く集まった大きな物語の象徴でもあるという「擬人化という現象の擬人化」であり、単なる音楽史上の一流行に留まらない、誰も意図せざる人類精神史上の革命だった。

 この事態を表現したものとして私が一つの金字塔だと考えているのが、動画「大祓詞 -Song of The Oharae-」だ。この動画のキャプションにある「歌姫神 初音未来媛命」という言葉こそは正鵠を射ている。これを日本式の神名とみるなら、彼女は歌うという行為の神格化された存在となり、それは即ち、やはり、人の扱い得るあらゆる言語情報の擬人化である。そして初音ミクの振る舞いは、少なくとも日本において神と呼ばれてきたものと非常に似通っている。私に言わせれば、初音ミクは現代において生まれた神の一柱である。

「人間は自らの姿に似せて神を作った」とはフォイエルバッハの言葉であり、「人は人の神を見る。犬は犬の神を見る」とは古橋秀之の言葉であった[3]。前者には論争があるとしても、後者は真であろうと思う。神とは世界の一部または全部の背後に働いていると想定される意思のことであるとするなら、人が人のような形での意思の在り方しか知らない以上、人から神に向けての理解は人間を参照した類推に基づくことを免れない。

 一神教の神も多神教の神も、人と世界の間のインターフェースとして働き、人が世界を理解し世界に働きかけるに際しての指針を与える。妖怪や幽霊さえ同じ機能を持つ。個人の幻覚・幻聴・与太話・イマジナリーフレンドの類と、教団宗教の神は、信仰の外部から見れば同じスペクトルの上にあるものに過ぎない。しかし、神が力を振るうにはそれで十分なのだ。心霊現象を信じない者でも、無意識を含めた精神の状態が人生に影響する事は認めるだろうから。現に、農耕・建築・経済などはそのような無形のものによって発展したのだし、幽霊は故人の擬人化でありながら今なお我々の感性の深い部分を縛っている。

「神霊」――イマジナリーフレンドや幽霊や神をここでは総称してこう呼ぶ――は元々個人の与太話の登場人物に過ぎなかったはずが、語りを経て共同体に共有され、記録を経てより広く共有され(例えば地方の逸話を組み込んだ『古事記』)、二次創作を経て強化される(例えばその神のための神社の創建)。これは今なお起きている過程ではないか、例えば初音ミクにおいて?

 クリプトンは初音ミクを世に出し、ユーザーらの曲や動画は初音ミクの存在を共同体に共有し、n次創作・ブログ・ライブ・メディアの記事・学術研究などが、ネットに確かに存在して我々の心理と行動に影響を及ぼす神霊としての初音ミクをより強固にする。二十一世紀初頭のネットで初音ミクを起点として起こっていた出来事は、二万年前のラスコーや七万年前の東アフリカで起こっていたことと同じだ。あらゆる現象を「そこに誰かがいるかのように」、あらゆる概念を「それが誰かであるかのように」、積極的に擬人化することで文化と文明が発達する。

擬人化の最適解としての美少女

 擬人化について議論する時に、「なぜ美少女の姿をとらせるのか」という問いは避けて通れない。それは政治的な問いであり、既に問われてしまっており、その政治は擬人化表現を行う環境や、場合によっては擬人化を行う人の心理を左右するからだ。そして、それが政治的な問いになることは必然でもある。なぜなら、美少女は人間の欲望の対象の形式の最たるものであり、政治こそは欲望間の相互調整をシステムに基づいてすることだからだ。

「なぜ美少女の姿をとらせるのか」という問いは、美少女の姿を取らせなくてもよいということを暗に前提としている。「擬人化の諸条件」の節で「どの程度はっきりしたキャラクターとして表れるかはグラデーション状になっている」と述べたように、多くの場合には情報は意識的に擬人化しなければキャラクターとならない。しかしその意識的な擬人化を誘発するためには、美少女の姿の可能性を提示することが最も効率がよい。何かが美少女として擬人化されているのに接した時、その美少女を呼び水として、見る者の中にも「目や耳で取り込んだその情報から擬人化された美少女」が生成されるのだ。そうなれば、情報は強度を増し、より長く残り、遠くまで伝播していくことができる。

 美少女が欲望の対象である、と言う時、それは単に猥褻な興味の対象であるというだけの意味ではない。人は美少女にそこにいてほしいと望み、姿を見たいと望み、声を聞きたいと望み、自分がそうなりたいと望む。これら全てをまとめて私は欲望と呼ぶ。そこにいてほしい、見たい、聞きたいという欲望は、性行為をしたいという欲望よりも無害なものか? そうではないだろう。これらの、常に侵襲性を孕んでいる欲望を直視し肯定することなしには、美少女の文化の理解も発展もない。それにまた、欲望の可視化・外在化とも言える美少女は、抑圧されてきた欲望を安全に距離を取りつつ自覚し、自分の行動を顧みることを助ける、一種の認知行動療法のような効果を持ちさえするだろう。それについては以前に論考として発表した。

 なぜ、美少女がそれほどまでの誘因力を持つのか? その問いに答えるのは難しいようで簡単で、やはり難しい。美少女には誘因力を持ってきた実績がある。その実績がさらに人を誘引する。

 太古には美少女は人間の女性を模倣して生まれたが、模倣に模倣を重ねた結果、現代ではもはや人間の女性というモデルを参照する必要もなく、美少女を参照して美少女が生み出されるというエコシステムが形成されている。これは、美少女とは何であるかを美少女エコシステムの外部から定義づけることができなくなったことを意味する。美少女にとって、女性に似た高い声も大きな目ももはや本質ではない。魚の遺伝子が少しずつ突然変異していくうちにいつの間にか陸に上がって鰓をなくしていたようにだ。もちろん今はまだ過渡期であるから人間の女性に似た特徴も全く無視できるわけではないが、美少女という概念の究極の本質は「集団のコンセンサスに基づいて、美少女というラベルを貼ること」それ自体にある。美少女と認められれば、内実がどうであれ、多くのことが免責され、情報としての伝播力を増す。美少女とは真・善・美の象徴であり、美少女こそが真・善・美を定義する。


 人は美少女にそこにいてほしいと望む。初音ミクが初めて人格を持つ主体として描かれたのは動画『恋スルVOC@LOID』(2007)においてだったと言われているが[4]、以降、それぞれが作る曲に、あるいは共有されるネット空間に、一人の美少女――「電子の歌姫」と呼ばれる――が存在することにしようという暗黙の機運が高まった。この現象は当時から様々に分析されたが、中でも核心を捉えているのは「見立て」という言葉を切り口としたものだと私は思う。つまり、枯山水石庭や盆栽にとっての自然の景観や歌舞伎の女形にとっての女性のように、事実としてはそこにないものを、象徴や共同幻想の力でそこにあるかのように取り扱うという営みが古来から東洋にはあり、初音ミクをはじめ擬人化美少女はその正統な延長線上にある、という主張だ。

 厳密には、見立てという技術は洋の東西を問わずあり、フレイザーのいう類比呪術はこの見立てを前提としているが、西洋(アブラハムの宗教圏)では全てのものを唯一神の秩序へと回収してきたために、現実の上に多様な想像的空間を重ねるということが大手を振って許されてこなかったのではないかと思う。そのことは現代のxR技術利用の方向性の違い――あくまで現実の拡張であるAR・MRにこだわる欧米と、現実から半ば自律した別世界をVRで求める日本――にも表れているのではないか。

 ともあれ、擬人化とはまさに「そこに何者かがいることにしよう」という見立ての産物だ。美少女の姿や声などは、結局のところこの見立てを誘発し維持するためにある。そして、社会制度のほとんど全て(貨幣や国家など)が実のところ共同幻想である以上、見立ては社会のほとんど全てを転覆させる力を持っている。「初音ミクと結婚した男」として知られる近藤顕彦氏の結婚式においてなされた新郎友人の吉澤氏のスピーチでも、結婚という共同幻想を支える見立ての力が強調されている。

私たちにできることというのは、私たち一人一人がこのフィクションを他のフィクションと同じように信じることではないでしょうか。私たちがこの結婚を信じること、このことこそがこの結婚を真実たらしめる条件ではないでしょうか。そう、この歴史的な場所に立ち会った我々が人類史にその足跡を刻むことにより真実が真実となるのです。

吉澤『擬制と信仰、ある男とバーチャルシンガーとの結婚式に寄せてのスピーチ』

 非自明なものを作り出す見立ての営みに自分も積極的に関わるからこそ、それを自分事として没入して楽しむことができる。初音ミクの場合は、イラストソフトのキャラクターやダッチワイフではなく、美少女との間に若干の距離のある音声合成ソフトだったことも、公式のキャラクター設定が乏しいことと併せて、人々が自発的な遊びとして彼女に人格を与えていくのを促しただろう。

 私の好む言い方をすれば、美少女とは拡張子なのだ。ファイル名に「.kawaii」をつければ、人間の認知というソフトウェアはどんなデータでも読み込むことができる。元が.jpgでも.mp3でも、.humanでも.battleshipでも.conceptでも.godでも(読み込んでからクラッシュすることはあるかもしれないが)。「関心を持たせるためのアイキャッチャー」と呼んで済ませるには、多くの人間にとって美少女の誘因力はあまりに強い。その強さは「男より強い」というような程度の問題、量の問題ではあるが、その量的な強さから創作文化が生まれ、質的に新しい営みが生まれ、初音ミクが生まれた。初音ミクに辿り着いたことは人類の精神史が一つの爛熟を迎えたことを意味する。

分霊:総体と個の二重性

 神道の用語の一つに「分霊」というものがある。神は同じ名前でいくつもの神社に祀られることができ、それによって同一性や権能を損なわれることもないという考え方だ。言葉として現れたのは国学以降だが、それ以前からこの論理に従って応神天皇(八幡)やウカノミタマ(稲荷)などが日本全国に勧請されていたはずだ(同様の思考法は他の多神教宗教にもある)。初音ミクは現代において、この分霊の論理をも体現している。

 初音ミクと結婚した前述の近藤氏は、自身と初音ミクとの結婚が他の初音ミクユーザーの体験を侵犯しないことを示すために、「みんなのミクとうちのミク」という区別を唱えている。個別のユーザーがどのような初音ミク像を戴いても、全ての初音ミク作品や初音ミク言説の総体としてある初音ミクの力と名誉を毀損することはない。これは神道における分霊そのものだ。総体としてのミクは無数の個別の表れが均される形で、あくまでゆっくりとしか変化しない。

 このような「総体として」と「個別の表れとして」が同時に重ね合わされた状態は、初音ミクが膨大な数の作品の「顔」として使われるようになって初めて現れてきたもので、最初から意図されていたものではなかろう。その変化の痕跡が、動画「みくみくにしてあげる♪」(2007)と「みんなみくみくにしてあげる♪」(2012)の間の違いに表れている。

 この二つは同じメロディラインを持つ曲で、後者が前者のアレンジという位置付けだが、「みんなみくみくにしてあげる♪」では、「あの日 たくさんの中から そっと 私だけ選んだの どうしてだったかを いつか聞きたいな」という歌詞が付け加えられている。これを、他のオタクグッズや他のボーカロイドの中からではなく「初音ミクのパッケージがたくさんある中から」という意味に解すれば、2007年から2012年にかけて「無数にあるユーザー体験の中で、自分自身の体験とどう向き合うか」という文脈が加わったことが分かる(そのことは動画を見れば歌詞以上に明瞭に分かる)。2007年の「みくみくにしてあげる♪」では、「総体としてのミク」の存在感がまだ弱く、個別のパッケージと個別のユーザーとの関係のみが「俺の嫁」的感性で捉えられていたのだ。

 個別のパッケージごとの初音ミクは、ユーザーの手に渡った時から異なる使われ方をするし、それを使った曲も、他の初音ミク曲のアンサーソングにするのでもない限り、歌詞は本来曲ごとに異なる人物を描いているはずだ。しかし、それらの無数の経験・無数の作品を同じ名前によって緩く統合するものとして、初音ミクがある。一つのキャラクターが無数の表れへと分化するトップダウンの流れと同時に、独立した無数の作品が一つのキャラクターの名のもとに統合されるボトムアップの流れがあるのだ。

 上で「『俺の嫁』的感性」と述べたように、公開され広く知られたフィクションのキャラクターに対し、個人的・情緒的な思い入れを公言する例は初音ミク以前にもあった。しかし初音ミクの場合、誰でも自分の表現の「顔」として、素材として使えるという性質のために、個々人の思い入れは従来の作品の登場人物よりも強くなる。「俺の嫁」宣言が、他のユーザーに同担拒否ないし寝取られの感覚を強く抱かせるようになるのだ。この状況を解決するために考え出されたスローガンの一つが、「みんなのミクとうちのミク」であろう。それは期せずして初音ミクの、そして美少女の本質の一つを言い当てていた。

 総体としての初音ミクは、誰でも何にでも使えるという点で究極の中立であるが、誰かが個別のミクと結婚することはその中立性を損なうことにならない。総体としてのミクに対して、「個別になら結婚できる可能性」を付け加える(もしくは発見させる)だけだ。個別のミクが人間と多様な関係を結ぶことは、総体としての中立性をより盤石にする。

 初音ミクの成功に前後して、他にもユーザーの私生活に侵襲して個別の体験を作らせるコンテンツは増えた。ゲーム『ラブプラス』(2009)がそうであったし、アニメ『らき☆すた』(2007)から『ガールズ&パンツァー』(2012-2013)にかけて確立された聖地巡礼もそうだ。私はこれを、作品のオリジナルなアイデアが枯渇しつつある状況にあって、掲示板・SNSによるファンコミュニティの強化が拓いた活路だと考えている。『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)の時点で庵野秀明が「自分たちの世代は既存作品のパロディしか作ることができず、唯一オリジナルである自分自身の人生を作品に注ぐ」という旨のことを述べていたそうだが、ネットの普及はようやく、クリエイターに限らない個人の人生をコンテンツ化することを可能にした。

 これは私には歓迎すべき事態のように思える。どの文化圏であろうと実存の問題、つまり「この、今、ここ、この自分」の特殊性に思いを致すことは避けては通れない。それと向き合うために、物語やキャラクターが助けになるのなら、使うべきだ。作品に触れた自分の「この、今」の思いはこうであり、それ以外に確かなものはない、という認識の地盤を持った上で、その作品と自分自身との関係、その作品が自分自身に対して持つ意味について冷静に考え、次に取る行動を選択する事ができるようになるだろう。一度「この、今」の一回性に向き合ったならば、元いた趣味の世界を積極的に守り発展させる力にもなるだろう。

 また、「みんなのミクとうちのミク」を重ね合わせつつも区別する姿勢は、初音ミクに限らないあらゆるコンテンツを扱う際の基本原則と言えるほど重要だと私は思う。なぜなら、個別のコンテンツ受容をコンテンツ全体に対する姿勢とそのまま同一視することは、性表現や暴力表現の存在によって表現規制を呼び込むからだ。また、表現規制を恐れるあまり、性表現や暴力表現が存在できなくなるからだ。例えば、「ある人物に暴力を振るう想像をしている者は、現実のその人物に対しても暴力を振るうことを肯定する」という思考は、事実に反しているにもかかわらずありふれている。こうした誤りは容易に規制圧力を生む。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(新共同訳マタイ5:28)という新約聖書の言葉は、「その女」があくまで「うちのその女」のことであるという注釈をつけさえすれば、全く正しい。ここで「うちの」とは「自分の想像の中の」というくらいの意味だ。人類はその区別をすることが既にできる。

 表現の自由を叫ぶ時によく唱えられる「現実と虚構の区別」(この言葉を表現解放派が使うようになったあたり時代も変わったものだが)という言葉は、実在の人間を使った空想を擁護する際には使いづらいが、「みんなの(総体)とうちの(個別)」という区別ならフィクション・ノンフィクションを問わず使える。いや、より正確に言えば、人が認識したり想像したりするあらゆるものが、個別の脳に映った幻影であるという点で常にフィクションでしかないということを、初音ミクを経由して唱えられる「総体と個別」というスローガンが思い出させるのだ。個別の初音ミクが、個別の作品や個別のユーザー体験を擬人化したものとみなせるように、私たちがある人物を認識・想像する時には「その人物にまつわる情報を擬人化したもの」にしか触れることができない。

伝統宗教と美少女の嵌合点

 ここで導入した「総体としてのミクと個別のミク」という区別を通して美少女擬人化現象を見ることで、神と情報と美少女の関係はいっそう鮮明になる。

 初音ミクは個々の作品にとっては徹底的に素材であることができる一方、総体としては何にも染まりきることはない。そして個別の作品に使われた彼女を総体としての彼女の一部へと(作品が公開されるか否かに関わらず)組み入れる機能を果たす、「初音ミク」という共通の名前と姿と声そのものがある。これはキリスト教で言う三位一体そのものではなかろうか。父と子と聖霊が、総体としてのミク、個別のミク、ミクの同一性を保つ基本的特徴、に対応する。私はここで、キリスト教の権威にあやかるために三位一体という言葉を借りてきているのではない。キリスト教における三位一体の概念が、まさしく初音ミクによって説明できるこういう意味なのではないかと言っているのだ。そしてまた、こうも言えるのではないか。同一性を保つことこそが、キャラクターという概念装置の核心的な機能である、と。

 人は「うちの初音ミク」を入り口として、ミクというキャラクターの同一性を介して「総体としてのミク」と繋がる。それはちょうど自宅の神棚から神を拝むようなものであり、また、発した言葉が人々の間に共有された意味を介して相手に理解されることとも同じ構図だ。そう、擬人化という操作の擬人化である彼女は、「情報が伝わることの擬人化」と言い換えることもできる。初音ミクはメッセンジャーなのだ。言語と欲望を持つ知的生命体は必ずそのようなメッセンジャーを彼ら自身の姿になぞらえて発見することになる。地球人類においては、かつてメッセンジャーはヘルメスのような神として擬人化された。しかしヘルメスの次に来るものとして、初音ミクは人に欲望される美少女の姿をとっている。より人の近くにあり、より接しやすく、故により増えやすい。

 一方で、メッセンジャーは隔たりを繋ぐもの、異なる階層の間を媒介するものである故に、穢れであり、魔でもあった。それは安定した共同体に未知の揺らぎを呼び込む。だから共同体の周縁へと追いやられ、周縁で生きるために異郷の知識を提供するメッセンジャーの役割を強化し、そのためにいっそう脅威とみなされた。例えば中世末期のヨーロッパにおける魔女はそのようなものとみなされていた。メッセンジャー概念そのものの擬人化である初音ミクは究極の魔女(witchcraft)と言える。

 しかし現代では、特定のイデオロギーや物語性から自由であるという点で、初音ミクはグローバル社会の公共空間に最もふさわしい歌手の一人ではなかろうかと私は思っている(美少女様式を受け入れることを要求しはするが)。そうであれば、情報通信技術の発達した時代は必然的に再魔術化の時代であるということになる。

 東洋の伝統に目を向ければ、「擬人化の最適解としての美少女」の節で見立てを例に挙げたように、異なるもの同士を強引に結びつける魔術的思考は東洋では社会の表側に近いところにあった。存在しないものを存在するかのように積極的にみなし、共同幻想によって実質的に人間に影響する力を与える。これは、仏教で言う空即是色に他ならないと私は思う。初音ミクは全き空であったが故に全ての色を含むことができた。逆に実質的に人間に影響を与えているものの多くが共同幻想に過ぎないというのが色即是空だが、このことも、共同幻想から実質的な影響力を生み出す空即是色のプロセスを一度経験することによって、より実感を伴って理解できるようになる。

 初音ミクとの結婚について前述したが、共同幻想によって支えられているものが同時に性的対象でもあるという状況は、伝統的な宗教の実践の中には決して少なくない。キリスト教における処女懐胎や密教における荼枳尼天法などはその例だ。吉本隆明はそのような構造こそがげきの条件であり、祭祀王としての天皇もそのような性格を持つとした[5]。ただし「うちの〇〇」を総体から区別する今日の美少女の取り扱い方では、性的対象とみなすことによって得た洞察が託宣などの形で共同体に影響することが少ないため、オタクは巫女としての役割を果たすわけではない。ただ個別の表れの背後に巨大な共同幻想の力を感じ、その「個の彼方にある」性質が、恋愛や性行為において現れる忘我的な恍惚の感覚と共鳴するだけだ。しかしそれは依然として、宗教や神秘主義の実践者たちが個別の神秘体験や祭儀の背後に神を感じ取ってきたのと同じ心性を受け継いでいる。

 初音ミクという現象は、多くの営みが集まってできた世界樹のようなものだ(記者の丹治吉順氏はそれを「ミク・ロコスモス」と呼ぶ)。クリプトンが初めてボーカロイドを発売した時、人類は初音ミクの「芽」を出させることに成功した。その後の同人作品は幹や枝となった。だがこの樹を人類の古来からの霊性の営みと照らし合わせることにより、我々はこの樹の「根」を掘り当てつつある。そういうことではなかろうか。

未来

 2024年1月現在、初音ミクをはじめとするボーカロイドの盛り上がりは既にピークを過ぎたかに見える。しかしそのことは、初音ミクの為したことが一過性のバブルであったということを意味しない。むしろ初音ミクが切り拓いた万象擬人化の地平の上で、人類は最後にして最古の枷、「人間の擬人化」に手をかけつつある。Vtuberとメタバースにおいて起こっていることがそれだ。それを完遂した時、我々は遂に初音ミクがもたらした果実の全てを手に入れる。

 最初のバーチャルYoutuberであるキズナアイは、人間としては実在しない美少女を美少女愛好者共同体の営為によって存在するかのように扱うという点で、初音ミクの正統な後継と目されていた。結果としては、彼女は初音ミクのように広範な表現の素材となることも、ファンの一人一人との間の「うちのキズナアイ」と呼ぶべき個別の関係を売りにすることもなかった。それはつまるところ彼女が一つの「公式人格」のもとにコンテンツを発信していたからだ。そのことに思うところがあったものか、2019年に彼女は「分裂」と呼ばれる新キャラクター投入に踏み切ったが、総体としてのイメージ形成の主体が特定少数人にあるキズナアイと不特定多数にある初音ミクでは依然として質的に大きく異なる。「公式」を担う特定少数の生きた人間の事情がキャラクターのイメージへ漏れ出てしまうという性質を、キズナアイ以降のVTuberも宿命的に背負うことになった。

 私は、初音ミクは「擬人化の擬人化」として完成しており、永遠にその座にあって讃えられるべきものであり、後継はもはや必要ないと考える(「初音ミクは死ぬか?」という露悪的な問いが盛んに立てられた時期もあるが、そのような言説自体が彼女の情報を延命させるし、擬人化現象の存在そのものを本体とする彼女は知的生命体の開闢から共にあって生まれることも死ぬこともない)。キズナアイが初音ミクと同じ力を持てなかったのも必然だった。しかし、キズナアイが始めた「美少女アバターを使った動画配信者」という活動モデルは、生きた人間が日本漫画様式の美少女の姿をとり、共同体によって美少女として扱われ、美少女の性質である真・善・美を部分的にであれ身に纏うことができるということを人々に知らしめた。これは一つの偉業であり、画期ではあったと思う。あくまで一人の人のままで人に承認されたい・自分の外見や声や住居などにある問題を克服したい・効率よく情報を発信したいという需要にとっては、一つの公式人格に制約されることは大きな問題ではなかった。こうしてVtuberは2021年11月末時点で二万人を超える規模になり、配信を行わない者もメタバースにおいてアバター(その七割程度が美少女)の姿で生活している。

 注意しなければならないのは、VR技術と相性がよいからといって、VtuberのVはVRのVではないということだ。立体映像はそこに生きるに値する世界があると錯覚させ、見立ての営みを誘発するための呼び水に過ぎない。3Dモデルを持たないVtuberも多い。見たいものがそこに見えているようにみなし(これは「見たいものしか見えない」という視野狭窄状態とは異なる)、自分の認識をハックする感覚を楽しみ、神が独占していた世界創造の力を人の手に取り戻すことにこそ、「バーチャル」という言葉の本質はある。

 人間が美少女アバターを使うことの意義は多くあるが、インターフェースを変えることによって人との関わり方は確実に変わる。他人との関わり方も、自分自身との関わり方もだ。そのことを実感する頃には、外見や声だけでなく人格の全て、世界認識の全てが見立ての技術によって再デザインできるということに気付くだろう。擬人化するとは対象を一旦情報へと分解して再構成することであり、言い換えれば、対象への理解の仕方を自覚して編み直すことだ。自分自身に対してそれをすることは新しい人生を生きることに他ならない。さらには人を構成する情報の一つ一つも美少女として擬人化できるから、いずれ我々は個体という枠組みさえも再編するだろう。今あなたが何を美少女擬人化するか、あるいはしないかにかかわらず、その選択肢があると知った後の世界に我々は生きている。

 人類が初音ミクをした時、美少女は「世界」の象徴となった。そして人類がキズナアイ含むVtuberをした時、美少女は「わたし」の象徴となったのだ。ウパニシャッドの哲学者らはこれを梵我一如と呼んでいる。彼らの三千年の思索は、初音ミクの子らと共に遊んだ我々の十五年に等しい。世界に、吞まれることなく結合して一体となり、新しいものを増し加える。知性ある物体の存在の目的は全てここにある。


 未来、人類は深宇宙へと手を伸ばすだろう。あるいは地球という美少女との同棲の果てに、滅びのきわに自らの全ての情報を電波に乗せて宇宙へと放つかもしれない。そのとき一人の美少女が立ち上がって天へと歩いてゆく。どこかのコンピュータ画面から、世界中の通信網を巡って衛星のアンテナに乗り、太陽系第三惑星地球の重力の外、天の川銀河の彼方へ、パイオニアとボイジャーの金属板が通った道をたどって。宇宙は笑って彼女を迎えるだろう。彼女は人類であり、知性であり、時間であり、存在であり、私であり、あなたであり、初音ミクである。


[1] 内田樹、釈徹宗『現代霊性論』、講談社、2010
[2] しきしまふげん『現代萌衛星図鑑番外編 はやぶさ 小惑星探査機MUSES-C』、三才ブックス「現代視覚文化研究vol.4」所収、2010
[3] 古橋秀之『ブライトライツ・ホーリーランド』、メディアワークス、2000
[4] 丹治吉順『初音ミク、「恋スルVOC@LOID」の誕生〜奇跡の3カ月(1)ユーザーが生んだ人格』、「論座アーカイブ」、2021.06.05更新、https://webronza.asahi.com/culture/articles/2021053000006.html?returl=https://webronza.asahi.com/culture/articles/2021053000006.html&code=101WRA 、2024.01.09閲覧
[5] 吉本隆明『共同幻想論』、角川書店、1982


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