twitterアーカイブ+:映画『天気の子』感想:選択と追認とセカイ系

映画一回目

『天気の子』を観た。操刷法師、満面の笑み! 「大きな物語」が崩壊して「小さな物語の乱立」の時代に入る、戦後数十年をかけた一連の過程が、遂に完了したのだと思う。近頃では決して珍しくはなかったものの、どこか及び腰だったテーマの、これこそ開花、結実と言えるだろう。

 セカイ系とは、崩壊していく「大きな物語」を、崩壊によってできた罅割れの中に手を差し込んで繋ぎ止めようとする幻想だったと私は思う。だが、その行いは崩壊を加速させる。どういうことか。

「君」に愛着が湧いた上で「世界」と「君」とを天秤にかければ、「世界」は「君」と同じだけの重さを得られる。だが読者・観客は主人公と完全には同化できない。作品世界の外では逆に、「その程度のことでどうにかなる『世界』とは……?」という疑いが広まることになる。

(補足)例えば2006年の作品『絶世少女ディフェンソル』のヒロインは次のように言う[1]。

「あたしがここにいるから、こんな恐ろしいことになったのなら、あたしひとりが消えればそれでいいのかもって、やっぱりまだ迷う……だけど慎はいま、いってくれた。たったひとりの存在や選択でゆらぐほど、この“世界”は弱くないって。もっと、もっと確かなものなんだって。だから、あたしひとりが消滅を選んでそれでなにもかも済むなんて、きっととても傲慢な考え。この領域を支えている、あたしたち以外のたくさんのひとたちに対する冒瀆で、侮辱。それに、そんなのはただ目の前の悲惨な光景から逃げてるだけだって、わかった……」

マサト真希『絶世少女ディフェンソル④』

 各人がそれぞれの大切なものに仮託して「世界」を語り始めるが、それもすぐに陳腐化する。個人が「世界」を語る言葉を持てなくなり、身の回りのものからの類推でしか世界を捉えられなくなる。神が「全能の人」でしかなかったようにだ。本当は最初からそうだったのだが、「物語」が覆い隠していた。

 こうして、セカイ系の隆盛によって「大きな物語」は完全に信頼を失う。後には、物語にもならない「大きな」だけが、地を這う者どもの日常から切り離されて頭上に浮かぶ。もはや、「世界」は我々の生殺与奪を握らない。「君」を人質にするかもしれないが、人々の営みの全てを滅ぼし去ることはできない。

「この世界って守る価値あるのかな?(あるならあんたが教えてよ)」という疑念は、以前からぼんやりとあったのだ。世界を滅ぼした後に残るものは意外と多く、「農場を破壊する家畜」の末路にはならないのではないかということが、セカイ系が自壊した後の学びであったのだと思う。

 逆に「君と、君と生きるために必要な最低限の生活」は、世界を滅ぼしてまで守る価値があるか、という問いはあり得るが、「大きな物語」と「目の前の美少女」に対する共感のしやすさは明らかに違う。そこは「美少女」という装置の真価であり、演出でどうにでもなることだ。

 また、「君と生きるために必要な最低限の生活」を単なる「君」の維持コストと見るのではなく、「『君』一人を守っただけでは物足りない、周囲の祝福も揃ってこその“恋愛成就”である」という恋愛観はあるだろう。思うにこれは、好意を露わにすること自体が悪(しかも非親告罪的な)とする風潮による。

(補足)異性に対する行為や関心を表明することは、当の相手に拒絶されるだけでなく、周囲からも「“間違い”を防ぐ」という治安維持の名目のもとに制裁されることがある。少年凶悪犯罪の原因が性衝動に求められたり(これ自体は悪くない分析だと思うが)、ポルノグラフィを子供でも容易に手に入れられる(ただし隠れてではあるが)ようになったりしたことで、その傾向は近年強まった。また、性愛や婚姻自体をめぐる価値観が多様化し、全体としての傾向も変わりつつある中で、これらの価値観が自分と近しい相手を見つけることはたとえ家族でも困難になり、近しくなければ激しい衝突に発展するという相互不信さえ高まっている。

 このような状況では、性愛を周囲から肯定してもらうことが希少性を帯び、また激化する衝突を避けるためにも求められる。この事態をセカイ系の時代まで続いていた恋愛観である「駆け落ち原理」から区別して、私は「祝福原理」と呼んでいる。

 ともあれ、色々なものに対して「お構いなし」に続いていく生活/日常、というテーマを印象付けるために、帆高の刹那的な消費行動はあり、またジュエリーショップ店員をはじめとする彼らの描写はある。

 展開がギャルゲー的だと言われるが、どうなのだろうな。何か思い切った行動を「やる/やらない」という選択肢が出るシーンで、二周目以降(もしくは他のルートを全部見た後)にはそのどちらでもない第三の選択肢が出ることがある。その第三の選択肢を選び続けているような感じ、とは言えるかもしれん。

 天下の大事よりも矮小な日常を選ぶ姿勢、暴力、不真面目、そういったものが批判されるのは理解できる。だが、だがな。表現の自由があるから黙れとは言わないが、これほどの作品を観て、事もあろうに食事シーンのアニメ仕草に難癖をつけるしかやることのない者はネットを解約して寝ろ。

(補足)陽菜の家で食事をするシーンで、陽菜が頬に手を当てて美味しさを表現するカットについて、「女性を官能に偏った受動的な存在としてステレオタイプ化する表現である」とする批判があった。これに対して私は、「創作物の様々な女性キャラクター描写を見慣れれば、どの作品の描写も現実の女性の真相を写し取っているのではなく作り手の演出意図と欲望の表れに過ぎないことが理解できるようになるため、問題ない」と言う。

 ただし、『天気の子』においては、「大きな物語」、言い換えれば「個人が世界にとって持つ意味」は喪失したままではない。晴れ女ビジネスによって一旦回復するのだ。が、帆高はせっかく回復させたこれを自ら否定することになる。

 セカイ系は自壊したが、「選択」を巡るドラマは依然として力を持っている。ただしこの時代の選択のドラマは、「あれを犠牲にしてこれを得た」ではなく、「そこにあるものを、“あれ”ではなく“これ”と呼ぶ」という、何を選択するかではなく選択する行為そのものに意味を見出す形になるだろう。

(補足)例えば、「世界を犠牲にして美少女を得た」ではなく、「水没した世界を“犠牲になった”ではなく“美少女と共に生きていく世界”と呼ぶ」というほどの意味だ。世界が水没していることに変わりはないのだが、その世界に自ら意味付けし直す姿勢が重視されるようになる。悪く言えば自己責任の世界観であり、良く言えば自分で幸福を生み出すことを諦めない態度である。

 破滅の後にそれでも続く人々の泥臭い生活を、好意的に描いた作品が過去にある。『堕落論』(坂口安吾、1947)である。そこではまだ、「選択」というキーワードは意識されていなかった。『堕落論』からセカイ系を経て螺旋状に一回りし、一段洗練されて戻ってきたのが、『天気の子』ではあるまいか。

 坂口安吾は「結果的に堕落してもよいのだ」と説き、新海誠は「自ら堕落を目指し、選び取ってもよいのだ」と説く。七十年間で日本人が出した回答はそれだったのだと私には思える。そして、向かう先がたとえ雨の降り続く堕落の日常であっても、自ら目指し選び取る過程にはやはり凄絶な何かが宿るのだ。

 いや、「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」(『堕落論』)というからには、坂口安吾も「選択」のことは意識していたのかもしれん。そこまで大胆な物語を書く者が乏しかっただけのことで。

 パンフレットに掲載された、凪役の吉柳咲良のコメントによれば、新海誠は「誰にも100%は予想できないもの」として天気を題材にしたらしい。これは「止まない雨はないから頑張って今を耐えましょう」という意味ではまさかなく、「100%の晴れ女」と対になる言葉だと見るべきだろう。

 つまり、100%の晴れ女とはピュシスとしての天気に対置されるものであり、意味が定められて硬直した記号/象徴界/ロゴスなのだ。これをやめさせるとは「意味」(例えば、天気の巫女としての役割)に殉じることの否定、即ちパトスの前景化である……

ギャルゲー

『天気の子』が何故そこまでギャルゲーだと言われるのか考えていたが、私は二つほどの理由を思いついた。一つは、何か選択をする前の「間」の取り方。銃を使うシーンに顕著だが、観客が「さあどうする……?」と考えるだけの時間が設けられている。これはギャルゲーのプレイ体験に近い。

 そしてもう一つは、帆高のキャラの薄さだ。立ち回りが派手な分意識に上らないが、帆高は行動のバックグラウンドにある動機や生い立ちをほとんど語らず、また行動に際して「人(第三者)にどう思われるか」「自分のキャラじゃない」という懸念も抱かない。これも平均的なギャルゲーの主人公像に近い。

 物語開始以前から連続している「内面」をほとんど持たず、動機は全て劇中の出来事から発し、あらゆる行動をミッション的にこなす。これはもちろんプレイヤーが感情移入しやすくするための仕掛けで、『神のみぞ知るセカイ』の桂木桂馬も自分のキャラに頓着しないという点ではこの類型に従う。

 ただ、「プレイヤーは没個性的な主人公に感情移入する」という常套句は、真実を表していないと私は思っている。主人公の行動の大部分は、プレイヤーが直接動かしているものではない。主人公とヒロインを俯瞰的に見て、状況そのものに喜び悲しむという腐女子的な立場が、プレイヤーの実際ではないか。

 同様に催眠音声でも、直接語りかけられる形式より他人が暗示を受けているのを傍観する形式の方がかかりやすいのではないかと私は思っており、現にyanh氏などはこのような形式を導入しつつある。作り話・他人事だという一線を引いた方が、むしろその一線までは急速に没入できるはずなのだ。

(補足)yanh氏の催眠音声『アクメノイド・イリア』[2]では、冒頭で以下の文章から始まる導入を男性声優が朗読する。

 西暦2050年、既に人類は、地球防衛組織IPTO(International Proton-Technology Organization:イプト)を結成していた。IPTOの基地は、とある天文台の地下深く秘密裏に作られ、沈着冷静なキリシマ最高司令官のもと、日夜謎の異星人ミステロンに、敢然と挑戦していた。

Yanh『亜空間迎撃機 アクメノイド・イリア Ver1.2』

 従って「没個性的な主人公」という作り方も、ただのギャルゲーの慣習に過ぎなかったのであって、その効果がいかほどのものだったのかは検証の余地があるだろう。『穢翼のユースティア』は名作だったのだし……

「初めての告白」「初めてのおうち」が強調されることを以て、「こいつは“初めて”にしか興味がないのか、女なら誰でもよいのか」という者は一つの勘違いをしている。恋愛とは基本的に、「誰でもよい」ものなのだ。好きになる・好きでいられる条件のようなものがあるなら、それを満たせばよいのだから。

 初めての相手なら。優しくしてくれた人なら。共に時間を過ごした人なら。愛するに足る相手なら誰でもよいのだ! だが、帆高の前にいるのは陽菜だ。初めてを共有し、優しくしてくれて、思い出を積み上げたのは、たまたま陽菜だった。その「たまたま」の尊さの前には、世界の正しさなど塵にも等しい。

 初めてだの優しくだの一緒の時間だのといった抽象的で機械的な条件どもが、今の帆高にとっては全て「陽菜を、見てる」の一言に凝縮されてしまうことができるということ、この尊さが諸君に分かるか? そして、その「今、たまたまここにあるものの尊さ」は、そのまま日常の尊さでもある。

 それはそれとして、あのホテルのシーンは帆高にとって、完全に『秒速5センチメートル』で遠野貴樹が言う「永遠とか心とか魂とかいうもの」の在処なのだ。新海誠はこの先どれほど大規模商業映画に強くなっていったとしても、この「心の中で永遠となった一瞬」というテーマを捨てることはないだろう。

 抽象と具体の重なるところ、精神と身体の重なるところ、非存在と存在の重なるところ、そこに永遠はあり魂はある。


 ところで、『天気の子』のギャルゲー的要素を考察するなら、やはり『神のみぞ知るセカイ』を参照することは避けて通れない。あの漫画は「分岐としての選択→追認としての選択」という遷移を押さえているし、「いくつものルートを見ているプレイヤー自身は何者か」という動ポモ的射程も持っている。

「追認」という概念が現代社会を生き抜くための、また理解するための鍵であることは、既に何年か前から私も述べていたと思う。



操刷「どういう刺激に対してどういう反応を返すべきか、当の私も把握しているわけではない。「私」は常に、反応を返した後から追認されているに過ぎない。ならばその追認している「何物か」が自我の真なる主体と推測されるのは自然であるが、アートマン思想が示しているように、これは観測する事ができない。」


操刷「この問題の本質は「私」という言葉が持つ「過去からの所与のものを追認するところの私」と「未来のものを自ら選び取り築き上げるところの私」という両義性が曖昧になっている事であって、自我の問題に限らず愚者の言う事と賢者の言う事がしばしば似通っているのも、結局はこれに起因するのだ。」


 ちなみにアートマンの話は、個人的な生い立ちを話すことは私の同一性を侵害することになるかという話から出たもの、過去の追認と未来の取捨の話はある曲の「私以外私じゃないの」という歌詞についてのものだった。

ミサイル

『天気の子』は世界の不条理の中でも、特に北のミサイル問題を意識して描いている、という考察を見た。新海誠の考える社会不安の中にミサイルが含まれていることは確かだろうが、それが作中の描写から強く読み取れるかといえば微妙なところだ。

「巨大な雲」は社会を覆う閉塞感の、「空から降ってくる龍」は帆高と陽菜が世界を決定的に変えることの(その決定的さ加減の)象徴と見ればミサイルなしで解釈できなくもないし(もちろんダブルミーニングはあり得る)、インタビューなどでミサイルに言及したのも単なる常識的な思い付きの範疇だろう。

 そもそも、「世界の危機を止めるために何を犠牲にするか、あるいはしないか」という問題意識はセカイ系から継承しているものであり、セカイ系における世界の危機は、ほぼ常に、戦争に仮託されて描かれてきたのだ。それは、セカイ系が元々冷戦の空気感を再現しようとして生まれた物語類型だからだ。

 新海誠がミサイルを意識しているだろうというのは当然と言えば当然で、そんな十五年も前に通過したようなモチーフをわざわざ強調するかという疑念はある。昨今特に危機感の高まった話題ではあるし、今改めてやる意義はなくもないだろうが、観客へのメッセージとまでは言えるか怪しいと私は思う。

映画二回目

『天気の子』二回目を観た。操刷法師、満面の笑み! 公共的な視点から言う「意味」なるものの否定、「役割」なるものに殉じることの否定、そこから「実存は本質に先立つ」というテーゼを通して人間の根底にある霊性が再認識される、まさに遅れて来た二十一世紀の映画と言えるだろう。

 巷間「効き目のないインチキ」という印象がついて回るスピリチュアルという言葉は、『君の名は。』や『天気の子』を説明するには相応しくない。映画で描かれている祈りや夢やムスビが表現しているものは、内田樹的な意味で「霊性」と呼ぶべきだ。

 霊性が世界と繋がっている(心/陽菜さんが空と繋がっている)ということが、まさにこの再魔術化の時代の核心であるが、それは『君の名は。』でムスビによって糸守を救った時点で通過した地点だ。『天気の子』ではさらに一歩踏み込んで、空と繋がっていても他人の心は所詮他人と断ずる。

 そして、自分のためだけに願い、それを空に繋げろという。陽菜があれほど喜んだ100%の晴れ女という役割を放棄させるのだ。あの花火大会の空は、否定するためだけにあれほど美しく描かれている。実存主義の賛美という観点で見れば、この映画のメッセージは非常に単純だ。

 役割の放棄、即ち社会の放棄(より穏当に言えば、一旦の捨象)は、セカイ系やギャルゲーが育んできたと言われるテーマでもあるが、『天気の子』ではいわゆるセカイ系的な構図は変質している。霊性が此岸と彼岸を結ぶが、それは狂った社会をこれ以上揺るがすことはもはやない。

セカイ系の自壊と世界認識の三相

 ちなみに、『天気の子』にギャルゲー感があると言われる理由は大体整理できた。私は以前「選択に迷っているかのような“間”がある」と言ったが、これは撤回する。確証が得られない。それよりも、やはり帆高に「恥も外聞もない」こと、つまり世間の目という発想が見られないことが最大の要因だ。

 ルートを分岐させるような大胆な選択というものが成立するためには、まず目的がはっきりしており、そしていずれかの選択肢を躊躇させるような「世間の目」が捨象されている必要がある。そこで初めて、目的に対して直線的な選択、例えばバイトを探してヤクザの事務所に乗り込むなどの行動ができるのだ。

 逆に、恥を晒す行動や異常なバイタリティに何の説明も与えられず、戦略的な考えがあってそうしている痕跡も見られなければ、我々はそこにギャルゲーとの類似性を見出すのだ。何しろギャルゲーの歴史において「攻略」という言葉は名ばかりで、戦略的に選択肢を選ぶ作品など少数派だったのだからな。

新海誠はパンフレットで、トラウマでキャラクターが駆動される話ではなく、ただ憧れのままに走り出す話だと述べている。この映画は「前進」の物語。ギャルゲーも、とにかく展開を読み進めたいという「前進」のゲーム。そして、同じく「前進」を中核としたゲームといえば…… https://blog.goo.ne.jp/anpontan-toyoaki/e/529c9cded16aff752dabd23df099d46b

(補足)2023年2月現在このリンクは切れているが、リンク先には「ポケモン赤緑は『善悪や理屈によらず、とにかく前進する』ことを一貫したテーマとしている」という趣旨のブログ記事があった。

 念のため確認しておくが、諸君はよもや、ギャルゲーのプレイヤーが脱衣やHシーンを目当てに作業めいてシナリオを読み飛ばしているなどと本気で信じてはいまいな。そういうゲームも脈々とあるが、そうでないゲームの一群が爆発的に隆盛した時期がある。

 この映画は決して難解な作品ではない。新海誠の主張は、最後の陽菜の祈りの姿を除いて、実にストレートだ。ただ鑑賞者がそれを是とするか非とするかがあるだけで、非とする者の一部は「そういう主張が一定の説得力を持つ時代である」ということが見えていないか、あるいは最初から貶すために観ている。

 一方、是とする者の一部は最後の陽菜の祈りの姿に思いを馳せず、ただグレート・リセットを礼賛しているに過ぎない。それはエゴイズムと言うにも中途半端で、むしろニヒリズムに属する。帆高に「大丈夫」と言われて安心するな。諸君自身が「大丈夫」と胸を張って言えるまでになるのだ。

 陽菜が家を引き払おうとする時、「私たちは大丈夫だから」と言う。これは、恐らくは最後の「大丈夫」と対比するためにある台詞よな。最後の「大丈夫」は、その場しのぎの慰めや強がりや嘘などではない、確信と宣言の言葉なのだ、と強調するための。

 ところで、勅使河原はフリーマーケットの実行委員の一人だったかと思うが、確信が持てない。早耶香と四葉に至ってはどこにいたのか全く分からない。取材のシーンにでもいたのか……?


大丈夫

『天気の子』で描かれたことは、現状の肯定や理想の放棄という言葉だけでは片付けられない。そこで肯定されているのはむしろ「変化すること」なのであり、その極端な例として敢えて異常気象や拳銃の使用(これも秩序からの変位である)が選ばれている。

 そして変化した先で安住するわけでなく、さらに陽菜の祈りという形で、さらなる変化(祈りという以上の具体性を伴っていないのは、期待されているのが単なる以前の状態への回帰ではないからだ)への肯定が描かれる。

「大丈夫」という言葉は、このような「ダイナミズムがあることそのもの」の肯定(あるいは追認)であり、その言葉によって放棄されているものとは自殺であり、その言葉によって獲得されているものとは、次の行動を考え選ぶための時間である。

 逆に、祈りなき「大丈夫」は思考放棄と化し、今できること(帆高にとってはアントロポセンの勉強)をしない「大丈夫」は本当に丸投げでしかなくなる。この点で「大丈夫」は十分ではないが、しかし必要な前提ではある。

 高校生の少年少女が「大丈夫なんだ!」と叫ぶから不安になるのであって、この「大丈夫」の意味合いはむしろマッドサイエンティストが思わぬ妨害を受けて「だいじょ――――――――――っぶなのでぇす!! 失敗は成功の母!!」と叫ぶ場合に近いと考えるべきではないか。


 コロナを経ても私の意見は変わらない。むしろ、帆高や陽菜ならぬ我々全てが〈選択する主体〉であることにどれだけ自覚的であれるか(つまり、「『大丈夫じゃねえ』じゃねえ、お前が大丈夫になるんだよ」)ということは今こそ試される。観客は、お客さんとしてこの映画を観ることはもはや許されない。

 選択という言葉になおも「選択の余地があるものか」という反発を覚えるのなら、「判断の主体」でもいい。まさかそれまで放棄はしまいな?

 汚い大人は、「帆高にはなれないから、せめて須賀くらいに……」などとみみっちいことを考えるが、新海誠は最初からこの映画を高校生のために作っている。モラトリアムにある者は、帆高であることができる。覚悟などという恫喝めいた概念を経由することなく、決断と追認の主体であることができる。

 ヒロインを獲得すること(あるいは、獲得できないこと)が他の全てに優越するのはギャルゲーが構造的に持っていた条件であり、「他のあらゆること」に世界という名で呼ばれるものが含まれるのはセカイ系の性質だ。しかし、『天気の子』はむしろ脱セカイ系と呼ぶべき射程を持っている。

 ともあれ、今「天気なんて、狂ったままでいいんだ!!」という叫びの最前線にいるのは、例えばあるるも氏のような者たちではないか? 私などは正しさで援護射撃したいと思っているが、モラトリアムの勢いが作り出す問答無用の「既成事実としての世界」は、正しさすら必要としない。

(補足)この頃(2021年1月)ちょうど、東京都高校文化祭に女子高生が出展した油絵が性的であるとして攻撃されていた。

先行研究

 大体同じことを知己のSangyoh_sus氏が映画公開直後に述べている[3]。


[1] マサト真希『絶世少女ディフェンソル④』、メディアワークス、2006
[2] yanh『亜空間迎撃機 アクメノイド・イリア Ver1.2』、Hypnotic_Yanh、2016
[3] Sangyoh_sus『『天気の子』は終末系日常ものの記念碑的作品である』、「はてなブログ」、2019.07.20更新、https://sangyoh-spy.hatenadiary.jp/entry/2019/07/20/170523 、2023.02.24閲覧



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