性癖分析シリーズ5「処女厨創世記」
概要:子供の性行動のリスクを回避しようとする社会的要請の結果、子供本人がそれに適応するために脱-物質文化的価値観とサブカルチャーの提供する男女関係モデルを利用することによって、二種類に大別される処女厨が生まれることについて。
本稿は2013年5月に時代錯誤社より発行された「月刊『恒河沙』174号」所収の「処女厨創世記」に加筆・修正を施し、同団体の許諾を得てここに掲載するものです。
1 序論
「処女厨」という言葉がある。
世の中には、自分の交際相手となる女性を選ぶ基準として、過去に自分以外の男性と交際した経験があるかどうかを第一の指針とする男性がいる。また、交際経験は問わないが性交渉の経験がない女性を求める男性がいる。或いは、たとえ交際経験がなくとも自分以外の男性に恋慕した経験があるだけで拒絶する男性がいる。これら、男性経験によって女性の価値を判断する男性、「女性の男性経験の乏しさへの固執」という概念によって括られた男性のカテゴリーを総じて「処女厨」と呼ぶ(「厨」は偏執を意味する接尾辞)。
このような人物像は古来から存在したが、二十一世紀に入って少なからぬ人数を擁する層として認知され始めた。「処女厨」という呼称もその認知の広がりに呼応して生まれたものだ。そして、この層は同時に往々にして激しい非難の対象ともなる。言うまでもないことだが、二十歳を過ぎてなお処女であるような女性と出会い交際できる見込みは低い。処女厨は周囲にいる同年代女性の多くが非処女になる年齢に達してもなお処女に固執するからその名がつくのだ。
常に「表面だけを見て人を判断する傲慢」「現実を見ろ」という批判に晒される処女厨であるが、では処女厨はなぜそうなってしまったのだろうか。どうして多くの男性が、膜が一枚あるかないかなどというパラノイアックな事柄を気にするようになってしまったのだろうか。処女厨とそうでない人間の分かれ目は何か。
本稿は、処女厨心理の本質と男性が処女厨になるメカニズム、その社会的背景について、一つの構成論的な仮説を与えるものである。最初に結論を述べてしまうならば、それは、一人の人間の成長というミクロな枠組みで見れば「失恋の正当化」の一言で斬って捨てられる防衛機制であり、一方でそこに介入する社会的背景というマクロな枠組みで見れば「共同体自治の崩壊と社会構造のパッケージ化」「資本主義的競争原理の疲弊と精神文化への傾倒」「サブカルチャーによる理想的な男女関係モデルの氾濫」の三つの柱である。そしてそれらがいかにして処女厨心理の本質である「セックスの神聖視」に繋がっていくかを詳述するのが本稿の目指すところである。
現代社会に特徴的なこのプロセスを考察することにより、処女厨のみならず「草食系男子」「ストーカー」を始めとする様々な現象の理解が可能になるが、それは別の機会に譲る。なお、本稿では自らが童貞の処女厨のみを想定する。
2 第二次性徴期
「処女厨の本質とは『女性が劣位にいなければ我慢がならない』という心理である」という言説があるが、この主張は恐らく正しくない。処女厨にとって女性が非処女であることは、自分に対する経験量上の「優位」ではなく、人生の選択における絶対的な「差異」である。「あなたの恋愛観は私と違う」、それが処女厨が非処女と交際するのを拒否する理由である。処女厨は自分と女性を比べることをしない、なぜなら彼にとって女性というものは個別の関係を結ぶ前の時点では偶像だからである。
「常識的な恋愛観」から処女厨への分岐は第二次性徴を迎える時期に端を発する。人が男女の別というものを明確に意識し始めるのは小学生の頃であり、この頃に異性との間に起きた出来事はその後の恋愛観を大きく左右する。そのような時期に、男女が仲良くなることと真逆の方向性を持つ体験、例えば失恋――たとえ「なんかキモかったからみんなで笑った」という程度のもので、女性にとってみれば振ったという意識もないとしても――小学生の頃にナイーブな(物事を深刻に考えてしまう、そのための思考能力と語彙を持っている)男性がそれを経験すると、長期にわたって根に持つことになる。すぐに失恋のトラウマを払拭する機会が訪れればよいが、そのような機会に恵まれる人間は稀である。あの子は自分のことが嫌いなのか? 自分は何か悪いことをしたのか? 自分があの子のことをこれほど意識しているのが分からないのか? そのまま自分を納得させるべく悩み続けた挙句――ある時、天啓が降ってくる。
天啓は二つの啓示から成る。一つは「女の子は男になんか興味ないんだよ!」、もう一つは「男の方から女の子に手を出しちゃダメだよ!」である。この天啓を下す者は誰か。直接の下手人は母親、次いで子供向け小説(少なくとも筆者が幼少の頃は「スカートめくり」という行為が概念の上では生き残っていたし、「やーね、男の子って」といった描写もよく見られた)、そんなところだろう。しかしこれは元を辿れば、社会全体が無言のうちに強いているイデオロギーでもあるのだ。現行の性教育が「してはいけないこと」を避けるための強権的な指導に偏っていることにもそれは表れる。冒頭で述べた社会的背景三つの柱のうちの一つ、「共同体自治の崩壊と社会構造のパッケージ化」が、ここで姿を現している。次項で詳しく述べよう。
3 個人主義とリスク回避
現代は自由主義の時代である。人は古代ほどに血縁に縛られることはなく、共同体の繁栄は二の次であり、科学の進歩の前に女性の霊性は一旦影をひそめた。しぶとく残る迷信や民間伝承も、今や自由に選び取られるべき相対的な知識にすぎない。付き合う人もその人と共にする行為も、全ては自由に選択することができる。社会の建前としては、やりたい人とはやっていい、やりたくなければやらなくていい、全ては自己責任のもとで――そのような時代になった。
しかし、これには暗い側面もあった。個人主義・自由主義は地域共同体の繋がりを破壊し、社会の構成単位を核家族に分断し、恋愛結婚という面倒極まりないシステムをもたらした。
友達を作るのは自由だが、友達を作らないこともまた自由である。お見合いもない。他人を拒絶しても何か深刻な罰を受けることはまずない。その上、気に入らない人間は(金さえあれば)何かと難癖をつけて社会的に抹殺することができる。己の身を守るものは自分自身か、そうでなければ杓子定規な国家権力しかない。共同体による、良く言えば慈悲があり、悪く言えばナアナアで属人的な仲裁はもはや望めない。そのことが表れているのが、例えば「声かけ運動」の一環として子供に挨拶をしたおじさんが不審者扱いされる事例だろう。動機が善意であろうと悪意であろうと、赤の他人に対して働きかける全ての行為が危険な博打になるのだ――赤の他人同士で一から自由に関係を築くことこそが個人主義の要請であるにもかかわらず。
その一方で、「知った顔なら何をしてもいい」という安全圏が出来上がることになる。つまり、既に面識があって良好な――どういう反応が返ってくるか予測できる――関係を築いている間柄であれば、接触に際してのリスクは大きく軽減されることが注目される。このような安全圏の存在は、先に述べたように共同体を介してリスクを緩和できないことも相俟って、赤の他人との間に新たな関係を築く試みを委縮させる。人は既成の関係にしがみつき、既成の関係があるという前提でしか物を語らなくなる。花を見て根を見ずというわけである。
個人の問題のみならず、教育においてもこの暗黙のリスク回避が適用される。知らない人に声をかけられても返事をしてはならないし、知らない子にちょっかいを出して相手の親から訴訟でも来ては事である。それでいて「いじめは良くない」「相手の気持ちを尊重」といった友達付き合いのお題目を教えるわけだ。それではどうやって友達を作るのか? 小学生が起きている時間の半分以上を共に過ごす学校の教師は、安全圏の外側の事柄について教えることが立場上できない。子供は友達の作り方を、自分自身の経験と親からしか学ぶことができない。親の影響というものはここで論じるにはあまりに複雑だが、人間関係の築き方について誠実に語ってくれる親も、また実地でそれを学べる機会も多くはない(新しい出会いの場であり得た公園・空き地は減り続けている)。結論は次の通りである。子供が友達の作り方を学ぶことは容易ではなく、それは主に社会そのものがそれを安全圏の外に置いて無視していること、及び「友達を作るかどうか」自体が個人の自由とされること、に起因する。
そして、「友達」を「恋人」に読み換えても基本的な事情は同じである。リスク管理という側面から見る限り、社会通念は実質的に、男女間の友情を成立しないものとみなしていると言ってよい。異性同士の付き合いになると、ここまで述べてきた「新たな関係構築の難しさと安全圏」は(そのリスクの高さによって)一層顕著になる。江戸・明治の頃までは、人はいずれ必ず結婚するという前提のもとで男児と女児を厳しく隔離しておくことができ、また恋人の作り方などを教える必要もなかったが、現代ではそんな大っぴらな隔離を行うのは憚られ、一方で「間違い」の起きる可能性にも怯えなければならない。結果、子供に当面は性的な事柄を現実的なものとして意識させない、という方針が選択されることになる。性教育が皮相的である理由はまさにこれであり、また「女は男に関心がない」「男の方から女に働きかけてはならない」という気休めの出所もここである。「大きくなれば真実が分かる」という期待のもとに、幼いうちは単純化された禁欲的規範を教えることが合理的になるのだ。
皮肉なことに、女性は往々にしてこれとは正反対の教育を受ける。それは現代に至ってもなお「女性はお嫁に行くものだ」「容姿こそが女性の価値を決定するのだ」という信念が根強く残っているため、そして(原因が何であれ)女性の方から「間違い」を起こすことが極めて少ないために、安心して男受けする格好や現実的な性の知識を教えることができる。
もちろん、以上はあくまで観念的な図式であり、我々は赤の他人との間に関係を築くことが可能だと知っている――本当に? 隣の席に教科書を借りなければならなかった(未必の故意)、同じ趣味を持っていることが分かった(リスク軽減)。何の免罪符もなしに他人に話しかけて友達を作った人間が、一体何人いるというのだろうか?
4 恋愛観不信
そうだ、自分は女の子と関わってはいけなかったのだ。思春期を迎えて情緒不安定になっている子供は、これらの天啓をどこまでも拡大解釈する。「女の子は男という存在の全てに関心がない、怖い危ないと思っているから仕方がない」――「男の方から女の子に視線を向けることすら許されない(ということを教えてもらえなかった)から自分は悪くない」――それを自暴自棄や悲劇のヒーロー気取りと呼ぶことはできるが、そこまで思い詰めてしまった時に当人の内に生まれ出ずるもの。それは、「男女が仲良くなる(≠仲良くする)のは罪だ、不自然なことだ」という究極の自己正当化である。
これの厄介なところは、「自分にそう教えた世間様は当然異性に興味なんてないに違いない」「しかし自分自身が恋愛感情を抱き得ることは経験的に知っている」という、他人と自分との乖離、ある種のダブルスタンダードを生じさせることである。筆者はこれを「恋愛観不信」と呼ぶことにしたい。言ってしまえば、この段階を経た男性は、他人も自分と同じように恋愛感情を抱き得るということを信じられないのである。恋愛感情を普遍性のない自分一人のものと考え、恋愛の神聖視が始まる。極端な言い方をすれば、男女の仲は神からの賜り物であり、人が手を加えるべきものではないというわけだ。
こうなればもう後戻りはできない。中学生になっても、どうせ女の子は男に興味がないのだから、また男からのアタックは罪なのだから、積極的な行動を取る事を諦める。次第に周りにカップルができ始めたが、あれは性欲に駆られた男が悪い魔法を使ったか女の方が男を弄んでいるのかもしくはその両方であって、いずれにせよ正しい男女の姿ではない。そして、そんな男女は至る所にたくさんいる。男はみんな無節操で狡猾だし女はみんな狡猾で無節操だ。もちろん自分も彼女は欲しい、しかしそのための努力はしてはならない。もし彼女を作るとすれば、それには「自分が何もしていないのに女の子が勝手に寄ってきた」あるいは「自分は近付きたくないのにやむを得ない事情で女の子に接近させられてしまい」という状況を待つ他はない。
自分自身の責任とならない分「女の子は男に興味がない」の方はまだ破られる余地があるが、自分からのアプローチは実際に危険である上、「女の子と仲良くしたい」という罪深い心を自ら表明することになってしまう。自分自身のビジョンの中で「女の子を落とす過程」(関係の構築)と「彼女がいる状態」(既成の関係)が乖離を始め、間もなく前者が消滅する。彼女ができた後のことに関しては、何を妄想しようと自由だ。そこは既にあの安全圏の中である。既に仲良くなった状態である他のカップルには目くじらを立てたじゃないか、だって? それこそが恋愛観不信なのだ。
5 サブカルチャーとロマン主義
以上のような経緯で自分の恋愛経験の乏しさを正当化するうちに、人は中学生~高校生という、急激に自立心の高まる時期に差しかかる。この時期には更に二つの要因が顔を出し始める。それは先の社会的背景三つの柱のうちの「サブカルチャーによる理想的な男女関係モデルの氾濫」「資本主義的競争原理の疲弊と精神文化への傾倒」である。つまり、競争に勝つことによってではなく自分が自分であるというだけの理由で人から認められたい、物質的・肉体的な充実だけでなく精神的な充足感を得たい、願わくばアニメの主人公のようなワクワクドキドキする恋がしたい、という願望が処女厨化に拍車をかけるのである。
数十年前までは、出世して金を稼ぐことが当面の正義であった。女遊びをし、美人と結婚することが一つのステータスであった。車、酒、ディスコ。筆者の世代が思い浮かべる「ひと昔前」のイメージはそんなところである(文句は筆者ではなくカラオケの古臭い映像に言ってほしい)。今は全くそんなことはない、とまでは言えない。しかし、世の中は着実に物質的豊かさを追求する傾向を薄れさせている。国際社会全体の経済が停滞してしまっていること、メディアにより世界中の「不都合な真実」を見せられ素直にこの世の美しさを謳歌できないこと、理由はいくらでもあるだろうが、ともかく人間社会の発展は一つの袋小路に行き当たってしまったというのが現代社会を覆う気風である。このような社会の気風を自分の肌で感じ始めるのが高校生あたりからというわけだ。
近現代の人類の進歩のうち多くの部分は資本主義原理と共にあった。資本主義原理は競争の原理である。しかし今や、他人を蹴落としてまで、蹴落とされる危険を冒してまで金や地位を得たいと願う若者は少ない。医者になっておけば安泰な世の中ではもはやない。誰が勝ち組かすら分からなくなってしまった。そんな空虚な競争に代わって、精神の充足、神秘的な加護を求める機運が高まってきたことにはあまり説明を要するまい。優劣を競うことなく、自分が自分であるというだけで生じる価値が欲しい。大量生産された工業製品とは違う、一回きりの生を大切にしたい。この一回性への指向は、恋愛やセックスに対しても同じように適用される。その上、恋愛やセックスの場合は、それが人間の本能的欲求と直接強く結びついているが故に、殊更にその指向が強く現れる。つまり、サブカルチャーの題材として広く使われる、というのがその直接的原因である。
売り物としての自分ではなく、精神性を重んじ、純粋に自分が満足できる選択をしたいと欲する人間にとって、他人の処女の処し方は自分の童貞の処し方と不可分には語り得ない。処女厨には少なくとも二種類あることを冒頭で示唆したが、それは結局のところ、自分自身が女性との関係を進展させる中でどの段階に最も重きを置くか、ということの裏返しに他ならない。中学生から高校生にかけての時期に取った行動により、将来各処女厨群への分岐となる差異が発生するのだが、結論から言えばそれは「二次元」「アイドル」「その他」という、趣味の上での差異である。
二次元趣味・アイドル趣味共に、女性型をしたものへの指向という側面を強く持つ。それは、キャラクターやアイドルと現実で出会う女性とを重ね合わせる見方が働いている限りにおいて(それは決して自明なことではない)、女性との関係性について一つの理想的なモデルを提供するだろう。サブカルチャーは対象層の抱える歪みを敏感にキャッチして汲み取ってくれる。ギャルゲーによくある「実は幼少期に会ったことがある」という設定はその最たるもので、ここまで述べてきた「ゼロから関係を築く難しさ、積極的な攻略行為への嫌悪、自分との間だけの代替不可能な絆」という若者のニーズを見事に捉えているのである。
女性が誰の物にもならない「終わりのない物語」を消費するドルオタ。主人公がヒロインの全てを一人で享受する「理想的に終わる物語」を消費する二次元オタ(例外的に、百合嗜好は二次元の中でもアイドル趣味に近い性質を持つ)。処女厨という土壌の上にこれらの趣味を蒔いた時、前者は閉じた人間関係の中で自分を含め誰とも交わらない女性を求め、後者は自分のためだけに存在する女性を求める処女厨として結実する。筆者はこの二者を、それぞれ「お人形厨」「はじめて厨」と呼ぶことにしたい。これ自体は感情か行為かという区分と直接的には関係ないが、お人形厨は恋愛感情を非処女の基準とする傾向があるのに対し、はじめて厨は性行為を基準とすることが多い。その理由は後述する。
ただし留意しなければならないのは、アイドル趣味は生身の自分自身がアイドルと対峙するのに対し、二次元ではヒロインと対峙する位置に置かれる男性の人生全体が作中の主人公によって規定されてしまう点である。このため、アイドル趣味は「現実の自分の人生のあくまで一部」として処理され、そこから生じた処女厨的価値判断もあくまでアイドルに対してのみ適用されて自分自身の伴侶選びには弱い影響力しか持たないことがあり得るが、二次元趣味から出た処女厨は自分自身の人生全体をギャルゲーなどの主人公に重ね合わせて現実にも完全無欠の美処女を求める可能性が高い、という違いがある。
6 行為の神聖視
さて、三つの社会的背景と二つの天啓が出揃い、いよいよ避けて通れない問いについて考える時が来た――彼にとって「処女」とは何か?
処女厨のうち、交際経験の有無を非処女の基準にする人間は非常に少ない。なぜなら、それは結局「交際したならセックスしているはず」か「交際したなら恋愛感情を抱いているはず」のどちらかに分極するからである。曖昧(感情)と厳密(行為)の狭間に位置するため、主義主張として持ち続けるには取り扱いが難しいのだ。したがって、以降では「一部の処女厨はなぜセックスという行為に固執するのか」「性行為と恋愛感情を分けたままにしている処女厨との違いは何か」という疑問について考察する。
全ての種類の処女厨は前述した恋愛神聖視・精神性重視の傾向を有する。「非処女は恋愛を軽視している」というのが処女厨の主張の根本である。恋愛は何度もするものではない、という認識があると言ってもいい。恋愛感情自体を基準とする処女厨はこれを忠実に守っている。「お人形厨」にとっては女性は誰かを好きになった時点で可愛い人形ではなく肉の塊になるし、「はじめて厨」にとっては最初に好きになった男性と何が何でもくっついていない時点で罪人である。たとえ自分が複数人の女性を好きになったことがあるとしても、である。これが恋愛観不信から出るものであることは言うまでもない。
性行為基準の処女厨は、ここから殊更に「行為」の神聖視が進んだ状態であり、二次元趣味の処女厨がこれになりやすい傾向がある。この鍵括弧つきの「行為」は性行為の婉曲表現ではなく、「行為というもの全般」の意味である。アニメ・漫画・美少女ゲームのように物語性を持つフィクションは、宿命的に何らかの行為・出来事をクライマックスとして派手に演出する。物語の持つこのような宿命は、行為・出来事を何かの達成の証とみなす見方を強化する。もちろん恋愛物語ではセックスがクライマックスになりやすいが、カテゴリによってはキスでも同様の役割を持つ。
エロゲーのうち「純愛ゲー」と呼ばれるカテゴリは、愛の達成の証として位置付けられるセックスの重みをさらに増すように演出することに特化している。競争相手がおらず、恋愛に興味のないポーズを続ける主人公に絶世の美少女が無防備に接触してくる展開はゼロ年代の流行ではあったが、本質はその後の、これでもかというほど甘々なベッドシーンの演出にある。このような演出はプレイヤーを、「性行為に漕ぎ着けて恋愛を成就する(あるいは、男として一人前になる)」という次元から、「どんな性行為をしたいか、プレイやムードの詳細を考える」という次元へと誘う。従って、ここで起きているのは、「フィクションを見ることによって真似したくなる」という時代錯誤なメディア影響論の単純な証明ではない。私はメディア影響論の各仮説の中では議題設定機能説が最も実態に即していると考えている。どんな行為をしたいか自問させることを通じて、フィクションは自己認知の解像度を上げ、嗜好の多様性を引き出す。しかし、行為の価値はこれによっては下がらず、上がるばかりであり、「初めてそれをすること」の価値も連動して上がる。それを覆すためにはNTR(寝取られ)のような、不如意を露骨に中核に据えるフェティシズムへの目覚めを待たねばならない。
かくの如くして、セックスは男女の接触の象徴であると同時に愛の完成形の象徴であるという二重の記号性を帯びる。従って、「やってみれば大したことないよ」という非処女非童貞の嘲笑は全く的外れなのである。肉の快楽のためにセックスをするのではない。単に形式的に彼氏彼女だから、単に好奇心から、気持ちよさそうだから、といった理由でセックスをする人間は処女厨の敵である。逆に言えば、付き合ったが物理的に性交がなかった交際は、本当に十全な愛があったとはみなされない。そのまま別れたならば、「この女性は愛が偽物であることに気付いて自ら貞潔を守ったのだ」として評価されるだろう。
字義通りの意味で言うなら、「彼氏がいた」=「非処女」ではない。しかし、逆にもし非処女であるなら、処女を失ったのは彼氏との性交の結果でなければならないし(強姦は例外)、「彼氏=心を結び合わせた恋人」である。等号が成り立たない場合、つまり処女厨が考える「恋愛」と女性の考える「恋愛」の重みが違う場合、それは処女であっても処女ではない――「観念的非処女」である。
ちなみに1970年代の女性解放運動において、中心的人物の一人であった田中美津が「とり乱しウーマン・リブ論」「便所のワタシと汚物のキミよ」といった表現のもとに似た議論を展開している。つまり女性に承認、労働補助、性欲処理といった部分的な役割しか求められていないということは、それを求める男性もまた非人間的な役割機械に堕していることを意味し、生身の、等身大の女性の醜さや不純さを直視することで男女共に真の人間性を取り戻す、と言いたいらしい。この論の是非はここでは問わないが、これに従うなら処女厨心理は価値基準の線引きがシフトしたというだけで、その問題点は安保闘争の頃からさほど変わっていないということになる。もっとも、それを指摘すれば処女厨はこう言うだろう――あなたが処女で、アイドルやギャルゲーヒロインのように魅力的な女性だったならば、あなたの醜さも不純さも全て受け止めてあげよう。あげようとも。
7 処女厨の処世術
処女厨の性質が何によって生じるかということについて、ここまで長々と見てきた。残りのページでは、処女厨が何を考え、世間の様々な批判や障害をどのようにくぐり抜けて生きているかを推測しよう。
上に引用した漫画主人公の台詞は処女厨の心理、あの「恋愛観不信」の本質を非常に端的に表している。恋愛経験は社会経験ではないし、結婚後に女遊びに目覚めて不倫などはあり得ないし、多くの女性に言い寄られその全てと上手く付き合えることは魅力でも美徳でもない。この言葉は、「世の中そんなに上手くいかないよ」「彼女がいるってのも楽しいことばかりじゃないよ」「いろんな付き合いを経験した方がいいよ」「性欲溜め込むと勉強も手につかないよ」といった非難・忠告を全て脳に入る前にシャットアウトできる魔法の言葉でもある。大抵の批判はくぐり抜けるまでもなくこれで亡き者にしているはずだ。
処女厨に対する批判として「自分が処女と付き合って、ヤって非処女になったらすぐ別れるのか」というものがよく聞かれるが、その問いに対する回答は多分――別れない、だろう。恋愛観不信を持つ処女厨にとって、「他人によって非処女になった」と「自分によって非処女になった」は全く違う現象である。自分はある種の「真実の愛」が実現するような交際しかするはずがない|し、その交際の内でセックスして非処女になったとしても、それは汚れてしまったことにはならない。他の処女厨から評価を受ける機会ももちろん訪れない。
一度誰かを好きになってしまえば、相手が非処女であってもそれだけの理由で身を引くことはできないのではないか、という疑問はもっともである。非処女にも穴はある。処女厨もこのことをよく分かっていて、処女だと確定しない女性に引っかからないための防衛策をとっている。それはまことに単純な「女性に興味がないふりを貫く」ことであり、どんな女性にもなるべく自分から接近しないようにしているのである。この方法は処女厨の多くが持つアイドル趣味や二次元趣味とも高い親和性を持つ作戦である。必然的に、理想の処女と出会う見込みも小さくなるが、そのデメリットに対して、非処女に引っかかって自分の恋愛観や矜持を脅かされるリスクを回避できることは拮抗するのだ。
「今まで付き合った男の人の中でいちばん」という台詞は、当然褒め言葉にならない。愛は比較されてよいものではないし、過去に別の男にも同じことを言っているかもしれないではないか。特に非処女からともなれば、弄ばれているとしか感じないだろう。逆に、たとえかつて他の男と付き合っており、非処女でさえあったとしても、もしその相手とやむにやまれぬ事情で別れたことを全くの誠意から深刻に葛藤している場合は、一概に断罪されることはないかもしれない。処女厨と同程度に恋愛に神聖性を認めていることが推測されるからである。のみならず、そのように「非処女にも真面目な奴はいるのだ」と気付くことにより、他人と恋愛観を共有し得ることを処女厨はようやく悟るのだ。そこから処女厨をやめるか、自分が特別な存在でないことに絶望し自暴自棄に陥るかはその人次第である。
ゼロ年代によく聞かれた「リア充爆発しろ」という言葉は、「あんな風になりたい」という単なる嫉妬というよりもむしろ、自分が他人に最初の一声をかけることを抑圧されてきた(と思い込んでいる、と付けるのはあなたの自由である)ことを鑑みて「裏切られた」「あいつは暗黙のルールを犯した」という断罪に近い心情を反映したものであると、筆者には思える。また同様に、男性が非処女をビッチ呼ばわりするのと、女性が童貞を馬鹿にするのは、性的経験を基準に他人を侮蔑する点では同じでも、構造的に全く異なるのである。
8 祈り
最後に、処女厨はいかに生きるべきかということについて述べておこう。
晩婚化・未婚化が進む今、結婚しなくとも社会的に深刻な不利益を被ることはない。しかし異性と交際したい――この言い方は正確ではない――愛し合いたい、という願望は人間個々人が心の内に持つものである。願わくば恋人はできる方がいい、ただし可愛くて性格のいい子で処女。しかし処女の中から良さそうな子を見繕うのは恋愛の神聖性を穢す。そもそもそれを言うなら彼女を作るための努力、例えば出会いの機会を増やすなどの営為全てが冒涜である。処女厨を処女厨たらしめているのは、好きになるのは運命の仕業、ただし相手はたまたま処女であるべき、という極めて脳天気な願望なのだ。処女厨はその壮大過ぎる願望をどのように成就すればよいのだろうか。
金を積むのは駄目だ。風俗嬢は観念的非処女である可能性が高い。それでは女性ではなく、周囲の環境を整えるために金を使うのは? これも賛同できない、自分と処女しかいないハーレムを作るのはやはり出会いに人間の営為を介入させることになる。
結局、自分から何かをしてはならないのである。神聖なものは神から降りてくるのを待つ他ない。処女厨よ、星に願え。天に祈れ。命ある限り神に陳情し続けろ。祈るだけなら直接世界に手を加えたことにはならない。魔術を学び、魂を磨き、一心不乱にただひたすらに理想の女性の降臨を請え。世のヤリチンヤリマンが一生かけても摑めない幸せを、あなたの神はあなたの手を汚すことなく届けてくれる。人生五十年、生涯にたった一度の逢瀬があれば、処女厨は笑って死ねるのである。
しかし、「主は盗人のように来る」。真実の愛の前には数々の試練が待ち構えている。悲願の叶うその日に備えて、まさにアニメの主人公のように、突然非日常の修羅の巷に放り込まれても女の子を守りながら生き延びられる自分にならねばならない。体を鍛えよ。知識を蓄えろ。経験を積め。ブラック企業に耐えろ。それは彼女を作るための努力ではない、より崇高な存在となるための修練である。愛を必要としない境地を得て初めて、真の愛は与えられるのだ。これは獣欲に身を委ねたDQNにも世論に養殖される社会人にも辿り着けない、新人類の高みへと至る道である。一人の「恋愛感情基準はじめて厨」として、筆者はあなたがその道を歩まないことを望む。あなたが笑えば、その分処女が減るではないか。
〈以上〉