あの日の赤飯が僕を受験生にした。
この時期になると決まって赤飯のことを思い出す。大学受験の10年前の記憶だ。
楽がしたかった。というと語弊があるけど、誰しもAO受験で受かりたいと思うものだと思う。しなくていいなら勉強したくないし、大学入学までにいっぱい時間が取れるのも魅力だった。僕は金城一紀のレボリューションNO.3や、村上龍の69sixty nineが好きだったから、高校三年っていうのは文化祭を企画するし、沖縄にも行くし、彼女もできて人生最高の時間が流れるものだと信じていた。
僕は勉強していなかった。内申点は4あったけれど、その点が見せかけだということは自分が一番よく分かっていた。苺100%の主人公たちの方がよっぽど勉強している。僕は体操や中学生の教育で見かけ上忙しくしていたけれど、ただ勉強以外のことに没頭していただけだ。
親に指摘されると烈火の如く怒っていたけれど、図星だから怒るのだ。会社に出て、TOEIC900点なんだと恥ずかしそうに言う人たちの中に入ってよく分かった。TOIECが同期の中で最低点だと言うことを自慢するほど恥ずかしいことはない。勉強していない事実はどう足掻いたって変わらず、いつまで経ってもかわるものではないのだ。
そんな僕が活かせる場こそが、AO受験だと思っていた。面接、小論文、なんでもござれ。自分のやってきたことはきっとAOでこそ活きる。実際にやっていたことは学校内で映画会上映をするためにポップコーンを売ったとか、先生に内緒で季刊誌を発刊したとか。エントリーシートの記入例として書かれていたような「陸上選手権県大会●位」みたいなものに比べていろんな意味でしょぼくて薄いのだが、逆にそれがかっこいいことなんだと信じていた。
そのままの勢いで、映像と身体表現を学ぶという学校のAO入試を受けた。志望動機は5倍の倍率をはね退け、見事合格。二次試験は英語と面接。英語はよく分からなかったけれど、面接には手応えがあった。頼まれてもないのに自分が書いている習字を面接官に見せて、苦笑していた気がするけど気にしなかった。
友達には「多分受かったと思う」と触れて回ったし、親にも「大丈夫だから気にしないで」と言っていた。言い聞かせていたのだと思う。長らく評価されない空間にいた。小学校からエスカレーターで高校だ。学校内での評価軸には言い訳がしやすくて、本当の意味でのdead or aliveなんて小学生の時の剣道の試合以来だったかもしれない。
11月の中旬だった。母は出かけていて、家には一人だった。一通の封筒がきて、待ちきれずに封を開けた。不合格という言葉だけがボールドになっているのかと思うくらいに強調されて見えた。
しばらくして母が帰ってきて、ぶっきらぼうに結果を伝えると、がっくりした様子で台所に行き、しばらく立ちすくんでいた。
「どうしよう、これ…」
なにかと思って見に行くと、そこには家族でいつもちらし寿司を作る時に使っている大きな樽の中に、大量の赤飯があった。
「合格すると思って作っちゃったのよ…」
その瞬間、はじめて僕はなんてことをしでかしたんだと思った。
僕が抱いていた自信はただの慢心だった。やっていない自分を正当化して、出来なくてもしょうがないと言えるような逃げ道を作っていただけだった。母の赤飯には、なにかどうしようもない、苦しさが溢れていた。きっと言いたいこともあっただろうに飲み込んできた母の想いが詰まっていた。
もう2度と母にこんな赤飯は作らせたくない。
あの日に、僕は受験生になった。自分の未熟さを受け入れて、努力することにした。結局AOで受けた大学は辞め、一浪してから第一志望の大学に入った。途中山小屋に住み込みバイトしたり、ハワイに一人旅に行ったり、親にはそんなことして落ちたらどうするのと言われたけれど、自分なりの受かる為の布石だった。
AOは落ちたけど一般入試で合格して、母に赤飯を作って欲しいと頼んだ。1年の間食卓から消えていたメニューの復活だ。今でも母はイベントがあると赤飯を作って持って来てくれる。勝利の思い出いっぱいの、おいしい赤飯だ。