【ためし読み】上田信治[著]『成分表』/③醬油
醬油
「刺身なんて醬油の味しかしない」とか「刺身は醬油のためにある」という言い方がある。
そこには、バーバリズムというかマウンティングというか、既存の価値の引き下げによる優位性の誇示があるのだけれど、たしかに、その言葉を念頭に置いた状態で刺身を食べると、美味しさのどこまでが醬油の味か分からなくなる。
醬油というのはそれほど暴力的に美味いもので、あんなに血の味に似た調味料はない。日本人はみな醬油中毒で、キュウリの浅漬けも納豆も冷奴も、あれは醬油を啜っているのだと言われれば、そうかもしれない。
何もつけない刺身の味を思って欲しい。
それはとてもたよりない味で、食べれば食べるほど美味とは思いにくい。
生魚が自然であり野生であり、醬油が人工であり文化なのだとしたら、私たちは、悲しいほど「人間」になりきってしまっているのだろう。
しかし、それは違うのだ。
神が、魚より先に醬油を作りたもうたはずもないのだから、私たちは本当は生魚の「あの味」の側に属している。
「何もつけない刺身の味を思って欲しい」と書いたとき、頭になぜか「メメント・モリ」という言葉が浮かんでいた。メメント・モリ(死を想え)。その警告のような真言のような言葉で想うべきは、肉体の死ではなく、人間が生きることの理由のない宿命のようなものだ。
人間の生の宿命は、たぶん、醬油をつけない刺身の味をしている。
好きとか嫌いの削げ落ちた、私たちは、その味を知らずに知っている。
評論家の山本益博が、刺身は、まず一切れ何もつけずに食べると書いていて、それはちょっと、ぞっとするような不自然さと野蛮さだと思った。それも何かの誇示なのだろうけれど、メメント・モリは、そんなふうに、これ見よがしになされるべきではない。それでは「らくだ」のカンカンノウになってしまう。
思うに、醬油はすでに、人間の自然の一部なのだろう。
それは田園と里山の風景に似た、自然と化し環境と化した文明である。
そして納豆のたれは、醬油の「自然」化をふまえた、さらなる文明化の要請によって生まれた。それは、生醬油の血の味を遠ざけるものだ。
生魚のあの味を想うことを、私たちは言挙げせず、ただ心に秘めていればいいのだと思う。
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