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【連載】古賀及子「おかわりは急に嫌 私と『富士日記』」⑤

いま日記シーンで注目の書き手である古賀及子さんによる、これからの読者のための『富士日記』への入り口。戦後日記文学の白眉とも称される武田百合子『富士日記』のきらめく一節を味読しながら、そこから枝分かれするように生まれてくる著者自身の日記的時間をつづります。

武田百合子著『富士日記』
夫で作家の武田泰淳と過ごした富士山麓、山梨県鳴沢村の山荘での13年間のくらしを記録した日記。昭和39年(1964年)から昭和51年(1976年)まで。単行本は上下巻で中央公論社より1977年に刊行、2019年に中公文庫より新版として上中下巻が刊行されている。


 日付があって、その日に食べたもの、買ったもの、人から聞いたことや行動が記される。『富士日記』は私たちのイメージする日記そのものだ。
 読むと、淡々と綴られる詳細な記録としての暮しのさまから、人というもの全体の雰囲気がどうしようもなく立ち上がってくる。ちょっとふつうの日記とは様子が違うようだぞと感じるころにはもう、文学としての豊かさを手渡されている。
 どういう秘密があるのか。研究して論じることは私には難しいから、『富士日記』の世界に自分のかつて見た景色を重ねてみるのはどうかと考えた。
 日記のある一文から発想し、記憶をたぐって私も書くのだ。
 同じようには書けない。でも同じ人間だから、下手でも呼吸ならできる。

✽ ✽ ✽

食い逃げを見る

〔昭和四十一年〕八月一日(月)
〔前略〕駅は登山やキャンプの男女でごった返している。駅でそばを食べていると、改札口の中側から立喰いしていたハイキングの女の子二人が、金を払わないで、ホームの方へ行こうとした。そば屋の親爺はとても怒った。その怒り方があまりひどいので主人と花子〔著者注:娘の武田花〕おどろく。

武田百合子『富士日記(上)新版』(中公文庫) 343ページ

 食い逃げを見たことがある。ややかしこまった、緊張した飲み会のあとだった。同席した友人と気軽に飲みなおそうと、一次会でずいぶんお金を使ってしまったから新宿の安いチェーンの中華屋に入った。麺類や丼物、定食を食べるお客が多いけれど、我々のようにさっと一杯飲んでつまもうという客もいる。

 新宿歌舞伎町の店は、遅い時間から働きに出る人も多いからか客席全体にずいぶんもったりよどんだ空気が流れている。よどみを攪拌するように忙しくスピーディーに立ち働く店員たちとお客のようすが対照的だ。蛍光灯の照明ですべては明るく照らされ落ち着かない。爆速で運ばれてきた生ビールを飲みながらメンマとチャーシューを食べた。

 入店したときからなんとなく気が付いていたのだけど、店全体のダウナーな空気をいっそう濃くまとったお客が隣にいる。うつらうつら、ほとんど寝ながら、もやしのたくさん乗ったラーメンを食べていた。

 白髪のまざって伸びた髪があぶらで束になり顔を覆って、表情は見えないけれど、ぼてっとした背中がふうふう息をして少し苦しそうにも見える。倒れてしまわないか心配でちらちら見た。

 友人はあまり他者を慮るところのないマイペースな人なのだけど、それにしてもちょっとは気になったらしい。私と同じように軽く視線を送っている。(大丈夫かな)と我々の間でも目くばせした。

 そのうち丼の隣に顔をぐらりと、バランスを崩すようにつっぷしそうになって、(あっ)と、思ったところで持ち返すようにぬっと背を起こした。ゆっくり、背をまるめたまま立ち上がる。左右へぐらぐら揺れながら出入口へ向かうと、そのまま店から出ていってしまった。

 動きはゆっくりだったのだけど、事が起こったのは急だったから私たちは状況が飲み込めず、あれ? これってもしかして食い逃げなのかな? 店員さんに伝えるべきなんだろうか? と脳のなかだけに浮かぶのだけど、言葉になって口から出てこない。友人も同じようすだった。

 あわあわとあたりを見回すだけの私たちだったが、店員が異変に気が付いたらしい。ホールの数人で声をかけ合ったあと、すぐにひとりが外へかけて行き、しばらくして連れて戻った。

 レジの前に立つと背が高く体のぶあつさもあって、大きな人だとわかった。支払うお金はあるようだった。

 登山にまったくうとくて知らなかったのだけど、富士山の公式ページには登山の混雑予想のカレンダーというのがある。見れば開山中、7月の中旬ごろから週末は大混雑が予想され、ルートによっては「前後の間隔がなく、しばしば立ち止まる」とある。

 『富士日記』にも、生活のすぐとなりに富士山がそびえることで、作品全体から当時の登山をとりまくいわゆるオーバーツーリズムぶりが伝わる。登山客で駅から道路から人がぱんぱんに混む様子がたびたび書かれる。
 登山道では同じ速度で歩けなくなった人が怒られたり、将棋倒しのようなことまで起きていたらしく大変だ。

 今のように事前に情報が得づらいだろうから、丸腰で来てしまい驚くこともあったんじゃないか。
 押し寄せる登山客であふれてまるで制御できていないようすは、もはやユーモラスに感じてしまう。日記の筆致によるものとは思いながらも、混雑して難儀する様子に悲壮感がなくどこかたくましい。

 ハイキングの女の子二人の食い逃げも多くは書かれていないけれど、ごった返す大混雑のなかでしれっと哀愁なく起きたように読める。
 書く手が、食い逃げよりそば屋の主人の激怒におどろいているのにもちょっと笑ってしまった。よほどの激昂だったらしい。

 そばではないが、ラーメン屋の主人にむちゃくちゃに怒られたことが私にもあって、もちろん食い逃げをしようとしてのことではない。
 お店の外観を撮らせてもらえないかと聞いたのだ。

 かつて店の近隣に住んでいた知り合いに、懐かしいあのあたりがどうなっているのか知りたいと、写真を撮って見せてくれないかと頼まれてのことだった。
 事情が事情だから、まさか断ることはなかろうと、むしろ歓迎してもらえるのではないかと気軽なさまで頼んだのがいけなかったかもしれない。

「だめだ!」と、いきなりトップスピードで大きな声で怒鳴られた。
「ここらのどこも撮るんじゃねえぞ」何か言う前にすでに周辺の撮影まで牽制してくる。
 予想外かつ唐突に激怒にふれたとき人はどうなるか、謝って逃げればよいものを、私はなんと、言い返した。
「友人が懐かしがってるんです、写真1枚くらい送ってもいいじゃないですか」
 これが主人をさらに怒らせた。
「冗談じゃねえ、ふざけるな!」

 どうも主人は人のカメラやネットワークに自分のプライバシーが少しでも残ることがどうしても我慢できないようだった。怒らずに言ってくれれば理解もできたはずなのだけど、なにしろすごい剣幕だ。
 取り付く島なく、諦めて帰った。

 まだスマートフォンはなかった頃だけど、インターネットは普及しはじめていた。それほど時間をおかずにあのラーメン屋はどうなっただろうかと、気になって検索した。閉店していた。

桃のおばさん

〔昭和四十二年〕八月十四日(月)
〔前略〕テラスの下に、赤い半袖シャツにモンペの女相撲の如き体格の赤ら顔のおばさん、急に現われて「もろこしを買わないか」と言う。背負い籠一杯のもろこしを持ってきている。 そのうしろに、もう一人おとなしそうなおばさんも、背負い籠にもろこしを一杯入れて来ている。今もいできたばかりだという。十本買う。三百円。二本出来損ねをおまけにくれる。行商が来たのは、ここに家を建ててはじめてである。

武田百合子『富士日記(中)新版』(中公文庫) 192ページ

 東京の自宅を離れ山荘で暮らす日々、と書くと喧騒からのがれて隔離的にすごす非日常が描かれるように思わせる。のだけど、『富士日記』が面白いのは山荘側の暮らしも圧倒的に日常の側にあるところだ。
 目線は起きて寝ること、食べて暮らすことにてらいなく向く。

 そしてその延長線上に、山荘をとりまく地元の人たちが自身の生活感とともに彩り豊かに現れ、それぞれのキャラクターを最大限に発揮する点も、この日記を生活の記録として躍動させている。
 石屋の外川さんやガソリンスタンドの夫婦はほとんどレギュラーメンバーとして登場する。山荘は隔離されるどころかむしろ開け放たれて世界と完全に地続きだ。
 行商のおばさんが登場するのは全体を通じて引用箇所だけだけれど、ふっとやってくる人たちもうしろにその人としての生活があることを感じさせる。

 祖父が戦後に長野の山に山荘を建てた。アスファルトで舗装された山道を登って別荘エリアに入り、個々の山荘の前の道まで分け入ると道は砂利道になる。砂利道の脇にくぼませて作った駐車スペースに車を停めて、うっそうと木々が立ち、足元にはシダが生い茂る斜面をかきわけてゆく。

 見上げると木漏れ日を受けどしんとした木造の小さな平屋があらわれる。
 室内はかびくさくて、湿っていて、寒い。蛾がそこいらいっぱいに飛んで、屋根裏はねずみが走り回り(たまに台所にも現れる)、そこいらじゅうを蟻が這うようなところだ。

 何しろここに来てしまえば涼しいから、暑いのが苦手だった祖母は祖父を亡くしたあとも7月になるとひとりで山に入って8月いっぱい帰ってこなかった。祖母は90代後半まで生きたが、夏の暑さをまともにくらわなかったのが長寿につながったのではと、葬儀では親族のあいだで噂になった。

 私が小学生の頃は夏にも冬にも出かけていった。夏は小屋周辺や近くの湖で遊び、冬も小屋の近くの坂でスキーやそりをする。

 着物にモンペを着てかごを背負った「桃のおばさん」と呼ばれた女性が小屋に来たのがその頃だ。当時は毎夏現れた。かごにはよく熟れた美味しい桃がたくさん入っていて、私たちはできるだけたくさん買って欲しくって母にねだった。

 行商の女性はこの人ひとりきりで、ほかに誰かが来たことは、私が滞在したあいだは一度もなかった。だから、桃のおばさんのようにかごを背負って山小屋をたずねるのが商売なのだという意識は子どもの私には無く、ただ、桃のおばさんという人が存在して私たちに桃を分けてくれるのだとそれだけのように感じていて、特別の人物だった。勝手に妖精かのように存在を信じていた。

 桃のおばさんは桃のほかにお赤飯も持ってきた。おばさんの桃の美味しさがあんまり飛びぬけていたから、子どもの頃の私は赤飯にはほとんど興味がなかった。迎える祖母や母にとっては目先が変わって興奮する商品だったんじゃないかと思う。私が覚えていないだけでお焼きなんかもあったかもしれない。

 山には高校に上がってから行かなくなったのではなかったか。それまで家族と一体だったスケジュールがひとり切り離されてバイトや部活にかわり、じわじわ自分だけのものになった頃だ。

 祖母が亡くなったあと、山荘は両親が継いでなんとかメンテナンスを続けて使い続けている。私も大人になって子どもが生まれて久しぶりに目の前に夏休みと冬休みが復活し、山荘通いも再開した。家族の場所として山荘がある。

 桃のおばさんは大人になってからは一度も会わない。毎夏山荘に通った祖母に聞けばいつまで行商にやってきたか分かるはずだが、祖母ももういない。

 おばさんには人生があった。だから、商売をよす日も来たのだ。


古賀及子(こが ちかこ)
ライター、エッセイスト。1979年東京都生まれ。2003年よりウェブメディア「デイリーポータルZ」に参加。2018年よりはてなブログ、noteで日記の公開をはじめる。著書に『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』『おくれ毛で風を切れ』(ともに素粒社)、『気づいたこと、気づかないままのこと』(シカク出版)。
【連載・執筆】デイリーポータルZ北欧、暮らしの道具店シカクのひみつマガジン
【ポッドキャスト】古賀・ブルボンの採用ラジオ
X(Twitter):@eatmorecakes
note:https://note.com/eatmorecakes


【隔週更新】
次回は6月5日ごろ更新予定です
見出し画像デザイン:鈴木千佳子

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