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【ためし読み】上田信治[著]『成分表』/②定義

有名漫画『あたしンち』共作者にして俳人である上田信治さんによる初のエッセイ本『成分表』のためし読みです。

定義


 『幸福論』で知られるアランのプロポ(断章)は、便箋二枚に書かれた、日本語で千五百字に満たない短いコラムだ。
 彼はそれを一日一つ、生涯で五千篇以上を書いた。
 まったくの一発書きで、推敲どころか書きながらの訂正すらしなかったそうなので、試みに『幸福論』冒頭の一篇を、自分なりに推敲してみたら、九百字前後になった。それは、ほぼこの「成分表」の分量だ。知らずに、だいぶ影響を受けていたかもしれない。限られた紙幅で自分の考えたことだけを言い、世のできごとの観察をもって証明とする、その方法とサイズ感に。
 プロポに似てさらに短い形式が「定義」で、アランは定義の愛好家でもあった(没後、遺されたカードから編纂された、彼の『定義集』は、タイトルから期待される内容とだいぶ違うけれど)。

 「○○は○○である」の一言で、世界の見え方を変えてしまう定義、あるいはアフォリズムがある。「政治とは分配である」「人間には無意識がある」「パリは移動祝祭日だ」「語りえないことについては、沈黙しなければならない」などなど。それは先人の思考のエッセンスであり、定義の形式を取ることで、万人のための道具になる。
 そこで、というわけでもないけれど、自分も言葉や概念の定義を考えることを趣味にしている。ひょっとしたらアマチュア天文学者のような形で、人類の進歩に貢献できるかもしれない。

 この世のほとんどの概念は「○○とは『○○と呼ばれるところのもの』である」以上の定義を必要としない。
 しかし人がてんでに勝手な意味で使うせいで、使用範囲も内包も確定しない言葉がある。「愛」とか「美」とか「たましい」とか。そういう大きすぎる言葉の定義を作って、持ち運びやすくしておくと、考えごとにはかがいく。それは、もともと抽象によるパッケージである概念に、さらに取っ手をつけるようなことだ。
 つまり、定義とは概念の再包装である。
 実用が目的なので、定義は誰にとっても「言われてみれば、その通り」でありたい。そこで可能であれば、言葉ごとに「どういう条件を満たせば、それを定義と見なせるか」という認定条件、すなわち「定義の定義」を考えることから始める。

 例として「カッコいい」の定義を試みる。
 「カッコいい」は「美」の下位概念であると考えられるので、それがどういう種類の「美」であるかを言えれば、定義になるはずだ。
 そして《モナリザ》は「美」や「芸術」の表徴としてあらゆる意味で卓越しているけれど「カッコいい」とは言いにくい。そこで一般に「カッコいい」とされるものを列挙し、それらに共通してあって《モナリザ》にないものが見つかれば、それは「美」の内側に「カッコいい」という語の使用範囲を確定したと言える──と、ここまでが定義の認定条件。

 《モナリザ》になくて「ポルシェ」にあるもの、《モナリザ》になくて「BTS」にあるもの、《モナリザ》になくて「福山雅治」にあるものは何か。
 あるいは《モナリザ》になくて「疾走するチーター」に『チェンソーマン』に「みごとに縫われた背広」に「新しいアイディア」にあるものは何か。
 あ、それは「ナルシシズムの投影」か。じつはチーター以下、自分がカッコいいと思うものを並べてみたのだけれど、そうしたらすぐ思い当たった。

 定義:「カッコいい」とは「ナルシシズムの投影(または移入)をともなう『美しい』」である。

 人が、任意の対象に、私的な「うっとり」を投影するとき、そこに見いだされる「美」が「カッコいい」である。
 ストレートな投影や同一視が難しい対象(たとえば女性から見た男性芸能人)の「カッコいい」は、対象のナルシシズムすなわち「俺カッコいい」に、鑑賞者が移入することによって発生する。
 だから「カッコいい」は、対象の内部にナルシシズムが多ければ生まれやすく、少なければ生まれにくい。
 「カッコ悪い」は、鑑賞者のナルシシズムを否定する事物に対する嫌悪だろう。
 過去において「カッコいい」は男性の(子供の)理想我で「かわいい」は女性の(子供の)理想我という性格が強かったけれど、現在、女性ファンからハロプロは明確に「カッコいい」ものと認識されているし、かつての「聖子ちゃん」の振り切った「かわいさ」も、じつは圧倒的に「カッコいい」ものだったのではないか。それは、女性のナルシシズムの投影としての「カッコいい」である(そういえば「宝塚」という、さらに複雑なものもある)。

 と、このように、いろいろ当てはめてみて、腑に落ちることが多ければ、その定義には説明能力があり、よい定義だと言える。この一文を書く前にはなかった概念にたどりつくことができて、たいへんうれしい。

 こうして、手ぶらで(先行研究などを調べずに)定義を作ることは「車輪の再発明」もいいところかもしれないが、人が自力で変な車輪を発明することはどう考えても面白いので、「再発明」で上等なのである。

上田信治 (うえだ しんじ)
1961年、大阪のマンモス団地で生まれる。大学の漫研で知りあって結婚した女性が、漫画家けらえいことなる。彼女の作品には、ごく初期のころからネタ、ネーム、単行本の構成等で協力していたが、読売新聞日曜版連載の『あたしンち』から全面的に参加、現在に至る。つまり、漫画家けらえいこの夫であり共作者。俳人として、句集『リボン』(2017年、邑書林)がある。


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