飼ってたハムスターが死んだ
子供の頃の一番の願いが何であったか?
それは「ハムスター飼いたい」であった。
しかし、両親が動物嫌いであったため、その願いが聞き入れられることはなかった。
大人になり、働く必要に迫られたが、
精神の不調のため就職することができなかった。
しかしパートでも、どこかで働かなければ……
働いているべき年齢で働かず家にいることが、
心身の不調という理由があるとはいえ、針のムシロの心地だった。
自己肯定感というやつが下敷きくらいの厚みしか無くて、いくら求人情報を見ても働きたい職場なんてどこもなかった。逆にどこでも良すぎて選べなかった。
そんな中で見つけたのが近所にオープンするペットショップの求人だった。
ここでなら、働けるかも……と思った。
やはり動物が好きだったのである。今から17年前のことだ。
両親は動物嫌いでハムスターこそ飼ってくれなかったが、小学生だった時に魚は飼ってくれた。
だから、熱帯魚の飼育経験だけはあったので、それで面接に飛び込んだ。
オープンだからということで大量採用していたのか、すんなり働かせてくれることになった。
この店にはアクアコーナーがあるので、そこの担当として。
それから17年、辞め時がわからなくて笑、まだここで働いている。
当然、店には犬も猫もハムスターも鳥もウサギも魚もいる。
17年働く中で、飼ったことない種類の動物でも一応商品知識とお客様の要望を繋げることくらいはできるようになった。
でも「ペットロス」の話だけは、
やはり魚だけの飼育経験では、当事者意識として薄い気がしていた。
動物病院も併設している当店では、急患の犬が営業中に運び込まれることもある。
事業として運営される動物病院をそばで17年見ていると、当然、残念なことに亡くなってしまい、その場で泣き崩れる飼い主の人を何人も見てきた。
また同僚たちもみんな動物を飼っていたので、
「ペットを亡くした人」の挙動を近くでよく見る環境にいたと思う。
「家族を亡くした人」という表現が一番しっくり来る。
本当に深い悲しみ、さみしさで一杯になる。
その別離があまりに辛すぎて、「もう二度とペットは飼わない」という人も少なくない。
そして、そうした憂いに沈んだ人が、また以前のように笑うようになったな……と思った時はたいてい、新しいペットを迎えた、という話をしてくれる時だった。
だからずっと、お客様や、同僚や、知り合いがペットロスで塞ぎ込んでいる時は、「できるなら、また新たにペットを迎たらどうか」と言ってきた。
愛するペットを失った悲しみは、同じくペットでなければ、埋めることはできないというのは道理になかっていないだろうか。
それも若くやんちゃな新しいペットに手を焼く生活になれば、その穴を埋めた上で覆うことができるというものではないか。
しかし、いざ、自分がそうなってみたら、そんな単純な話ではなかった。
老い、病に伏せり、荒く息をしている、愛する小さな友だちを前にして、なんとかしてやりたい、この子でなければダメだと思うばかりで、新しいペットのことなど考えたくもなかった。
一方で、老い、動きが鈍くなり、痩せていく愛する小さな命をただ見守るしかない苦痛、というのは相当なもので、人によっては不義理だと怒るかもしれないが、今目の前にいるこの子を最後まで看取る、という決意をするために、この子を最後まで看取った暁には、また健康なハムスターを買って、その子とまた、楽しく暮らせるようになる、と言って、自分を励ました局面があったのも事実だ。
「気の毒」という言葉があるが、その言葉のつくりも絶妙で、けっこう自分本位な表現なのかもしれないということにも気づかされた。
あれは「かわいそうに思う」という意味だが、
愛するハムスターが日々弱っていく姿を見守るというのは「『ハムスターが』辛そうでかわいそう」というより「『私に』とっての気の毒」という表現が、悲しくもしっくり来る、ということに気づかされもした。
先月のまだハムスターが元気いっぱいだった頃のある日、ハムスターのいつものトイレに血がついていた。
どうやら血尿を出したようで、それまで下痢一つしたことのなかった元気な個体だったハム太郎(うちのハムスターの名前です)の見せた初めての顕著な体調不良に動揺し、すぐに動物病院に連れて行った。
動物病院でも元気いっぱいに、先生の触診にイヤイヤして先生を笑わせたハム太郎だったが、どうも腎臓が腫瘍化しているようだということで、ここからレントゲン撮って診断しても、処置としては手術くらいしか取れる手段はなく、高齢のため(1歳10ヶ月)手術をしたところで本人のQOLにプラスに働く可能性は低い、とのことだった。
レントゲン撮ったり開腹したわけではないので断定はできないが、腫瘍であるなら、もう手の施しようはなく(内服の薬で消せるものではないので)今後は痩せさせないことくらいしかできることはないだろう、と言われた。
その帰り道、衆目も気にせずわんわん泣いた。
ハムスターの寿命は2年ほどだと言われている。
その時ハム太郎は1歳10ヶ月だったが、根拠なく、もっと一緒にいられると思っていた。
2年しか生きないと、分かってて飼い始めたつもりだった。
でも、一度もハムスターを飼ったことがなかった私は、その言説をどこかで信じていなかった。
5年も6年も生きちゃうかも……ハム太郎があまりに元気で活発だったこともあって、そのくらい楽天的に考えていた。
でも、やはりそれは事実で、ハム太郎とのお別れが近づいていることをつきつけられた。
その日は狂ったように泣き続けた。
お別れの日が近い、と分かっただけでこんなに悲しいのに、ハム太郎が死んでしまったらどうなってしまうのか不安だった。
ハムスターの後追い自殺、など笑えない。
しかし、もともと生きる意欲の薄い者にとってはありえない話として笑い飛ばすこともできなかった。
そうこうするうちに、ハムスターではなく私の体調が悪くなってきた。吐き気と頭痛と腹痛と悪寒。
まるで私の身体がハムスターの変わりに病み、ついに死ねば、ハムスターの死を私が替わりに完遂すれば、その悲しい結末を免れられるのではないか、と無意識に考えているようだった。
でも、ハムスターと自分の境界線が曖昧になっている、と自分で気がついた。
ハムスターと自分の境界線が曖昧になったと感じたのは始めてだったが、毒親育ちではあったので、母親と自分の境界線がなくなったことはあった。
その時は双方に大変悪い影響があった。
だから、自他の境界をはっきり持つことの重要性には身につまされていた。
それに、ハム太郎にしても、まだ元気だった頃、私がバチクソに体調悪い時、私の体調など一切お構いなしに「私は私だ」と元気いっぱいに部屋をかけまわっていた。
その自他境界の健全さに救われたことだってあったのだ。
それで、襲ってきた謎の体調不良をとりあえず振り払い、私が体調不良になってしまったら、今後もっと弱っていくハム太郎のお世話を誰がするのか。
少なくとも私だけでも最後まで、とりわけ健康でいるようにしなければ、と気を取り直した。
その時は昼で、ハム太郎は元気なのか体調不良なのか分からない様子でこんこんと眠り続けていた。
夜になり、いつものように起き出してケージから「出して」とアピールしてきたので、散歩に出した。
この2年間、私が1日のうちで一番大切にしていたハムスターの散歩の時間だ。
腫瘍を指摘された日だったにも関わらす、ハム太郎はめちゃくちゃ元気で、私のベッドから玄関までくまなく走り回ってパトロールしていた。
当然私はハム太郎のその姿を見てわんわん泣いていた。
というか、平時から私はハム太郎との別れを空想したり、一緒に過ごせることが嬉し過ぎたりして、よく泣いていたのだった。
そのたびにハム太郎は心配そうに寄り添ってくれ……たりすることはなく、「コイツ目から水出てる、キモッ」という感じで、一瞥して走り去ったものだった。
今回もハム太郎を見つめて大泣きしていたら、ハム太郎がいつものように「コイツまた目から水出してるわ」とこちらを見て立ち止まった。
そして、私にこう言ったのだった。
「アンタねぇ、アタシが死ぬのを悲しむためにアタシを飼ったの?違うんでしょ?しっかりしなさい!」
「こんなんじゃおちおち死んでらんないわよ」
まぁ、私の勝手な妄想かもしれないが。
自分には無かった考えが、ハムスターと見つめ合った途端に浮かんできたのだった。
そうだ、私は、ハムスターが死ぬのを思い切り悲しみたくて、ハムスターを飼ったんじゃなかった。
一緒にいたくて、かわいい姿を見せて欲しくて、たまには触れてみたくて、お迎えさせてもらったんだった。
それなのに、リミットを提示された途端に、
そうした楽しさ素晴らしさを一切忘れ、逃げ出したくなるほどの悲しみに飲み込まれそうになってしまった。
しっかりしなきゃ……
ハム太郎と一緒に生きるために、一緒に楽しい時間を過ごすために、ウチに来てもらったんだから。
最後まで、ハム太郎をかわいがらなくちゃ。
かわいそうがるんじゃなくて……。
そこで気を取り直して、ハムスターの介護生活に真面目に取り組む決意をした。
そこから亡くなるまで丁度、一ヶ月だった。
もっと早くに亡くなるかと思っていた。
だから毎日寄り道しないでまっすぐ帰った。
ハム太郎は意外と元気で、なんとおとといまで自分で小屋から出て散歩していた。
今朝も、何か言いたげにドアの前に歩いて来た。
だから、弱っていたけど、もう少し先かと思っていた。
眠るハム太郎を5分おきに確認しながら家事をしていたが、
さっきまで動いていたのに、次に見たときは息をしていなかった。
駆け寄って、触ってみたが、信じられなくて……
なんだか、夢でも見てるみたいで……
まあるくなって、寝てるみたい。
こんなこと言うと不謹慎かもしれないが、死んでもかわいい姿はそのままだった。
気位の高いハムスターで、ゆうべも「ありがとう…」とかいって体を撫でようとしたら気安く触るな💢とキックされてしまっていた。
だからいらぬストレスをかけぬようにと、最近はなるべく触らないようにしていた。
なので久しぶりに、彼女を手に乗せた。
死んでいるというのに、まだ無限に私から愛を引き出す。なんと、なんと愛おしいのだろう。
また動き出してくれないかと、期待をこめて優しく揺すっても、以前のように怒って嫌がる反応は返ってこない。
そのまま2時間泣き続けた。
ハムスターが死んだ日って、何をすれば良いんだろう。
秋の空が明るくて、洗濯物が風に揺れている。
それをただ見ていることしかできなかった。
本当に辛かったが、葬儀までの間に遺体が傷んではいけないので大切に包んで冷蔵庫に入れた。
生きている間は、ハムスター小さい生き物だから、冷えてしまうことがとにかく心配で、ずっと冷えないよう注意してきた。
だから、死んだからといって、冷蔵庫に入れるのに抵抗があって1時間くらいグズグズした。
葬儀が済み、一人の家に帰ってきた。
もう10年以上この部屋で一人暮らしをしているが、
この2年、ハムスターを中心にした生活をしていたせいで、何者かの気配がない、何者にもペースを乱されない空間というのが単純に新鮮だった。
ハムスターを飼う前は、こういう生活をしてたんだよな……
よくこんな静けさの中で暮らしていたなと思う。
毎日夜に2時間、ハムスターの散歩につきあうための時間を取り分けていたから、ハムスターが寝たきりになってからその時間がヒマになってしまった。
いや、家事を中断させられることがないから、いろんな雑用がむしろ捗った。
でも、変な所に入っちゃったハムスターを追いかけて、いらん手間に煩わされている方が良かった。
料理をしていて、小さな同居人のために、野菜を小さく切り分けて残しておく必要ももうない。
全部鍋に入れても、もう大丈夫なのだ。
何をしていても、不在のハムスターのことばかり考えて、何時間も涙が止まらなかった。
でも、その涙の中にはさみしいとか、悲しい、というのももちろんあるけど、「一緒にいられて、楽しかったなという嬉しい気持ち」とか「ハムスターと過ごした素晴らしい日々を思い出して胸がいっぱいになる感動」とか、「最後までお世話できた、という達成感」もあり、悲しいばかりではないのだということも、発見だった。まぁ、結局泣くのは変わらないんだが……
また、ハムスターを飼おうと思う。
本当に本心を言うと、老いるハムスターをただ見守るのも、愛したハムスターと別れるのも辛すぎて、
もう飼いたくない、と正直思う。
でも、ハム太郎と過ごした日々を「悲しい出来事」にしてしまいたくない。
ハムスターと暮らして、ほとんどは楽しかったし、素晴らしかったのだから、そのように結論したいし、そのように結論するのならば、また飼うべきだと思うのだ。
それに、ハム太郎だけでなく、「ハムスター」という種族に対し、引き続き飼養を続けることは恩返しにならないだろうか。
いや、本来野生動物である生き物をペットとして人間のそばで飼育することには当然否定的な意見もあるだろう。
しかし自然界においても異なる種同士が共生関係を結ぶことはある。例えばアリとアブラムシや、ハゼとエビなどだ。
そのような意味では、現在地球上で最も繁栄した種族である人間に寄生しようという生き物がいたとしても何ら不思議ではない。
実際に牛や蚕など、人間の世話を前提として種を存続させることに成功している種族はたくさんいる。
では、果たして、ハムスターはどうなのだろう。
微妙だが、特にゴールデンハムスターは中東など内戦の続く地域の原産のハムスターなので、
政情不安から現地調査をすることができず、
現地のハムスターがどれほど生息しているのか?絶滅が危惧されるほど減っているのか、はたまた駆除するべきほど爆殖しているのか?不明とされている。
だとしたら、この離れた土地ではあるが、彼らの1個体でも生命を支えることが、彼らという種族の役に立つのではないか。
また、彼らとの生活から彼らの福祉のためにできることを多少なりとも試行錯誤し、発見があればそれを発信し共有することで、ハムスターという種族の繁栄に少しでも貢献できるのではないか。
それに、ペットを失った人に対してこれまで自分が安易に言ってきた「新しい子を迎えなよ」というアドバイスの責任を、自分でも一度は負わなければ。
また2年後に、こんな思いをするのかと思うと憂鬱でしかない。
でも、もはや、ハムスターのかすかな生活音のしない生活に戻ることはできないような気がする……。
ハムスターが自分の気持ちを自分の言葉で語ることができないから、どうしてもこちらのエゴに付き合わせることにはなってしまうのだが、また一緒に暮らしてくれる子を探そうと思う。
話を戻そう。
ハム太郎が亡くなってまだ喪失感が大きくて、夢みたいな心地がする。
このあとまた違う感情が出てくるのだろうか。
ゆうべもよく眠れなくて、泣きすぎて頭と目が痛いのに今日は仕事だ。その後も予定が詰まっている。ちゃんと働けるのだろうか。なんか悪いものをもらいそうで不安だ。
でも、ペットを失った人の気持ちをより深く、自分ごととして認識できるようになったことは良かったと思う。
ハムスターでこれなのだから、犬や猫の見送りのさみしさとはいかばかりだろう。
でも、寿命の長さからいって、経験する別離の回数がどうしても多くなるのが短命のペットの宿命だ。
そういう意味で、ハムスターよりも犬や猫の方が、ペットロスになりにくいかもしれない。寿命がハムスターよりは長いから、経験するお別れの回数も、必然減るわけだから。
いや、でも一緒にいる時間が長い分、一回が重いか……
2年間ハムスターを飼ったが、
毎日朝起きたり、仕事から帰ると、真っ先にケージを確認してきた。
小さすぎて死んでるんじゃないかと心配で。
でも昨日を除いて、毎日元気な姿を見せてくれた。
最後まで、というか今も、あのかわいさが当たり前になることはついに無かった。毎日新鮮にかわいくて、毎日新鮮に驚いていた。いつか飽きるのかと思っていたが、最後まで、愛おしすぎて、ハムスターのいる毎日が当たり前になることはついぞなかった。
もっと一緒にいたかったな。
できうる限りの時間を使ってハム太郎と関わるようにしてきたが、まだ全然、ハム太郎のこと、知らないままだったと感じる。そのことは心残りだ。
この後、ハム太郎はどこへ行くのかな。
ハムスターだけが行ける天国で、思うまま好きなだけ散歩できるのだろうか。
私が死んだ後に、いつか会えるのかな。
もう会えないなんて、悲しすぎる。
宗教にはそれなりに詳しいつもりだが、あまりペットの死後に関する情報を既存の伝統的な宗教は人間の死後ほどにははっきり提示していない気がする。
動物の死後を扱っていても、あまりしっくり来ない。
畜生道とかって動物好きにはご褒美過ぎてよくわからない。
ペットが人間にとって重要な意味を持ち始めたのが最近のことだから、ということなのだろうか。
いや、絶対過去にも私以上に動物を愛した人間はいたはずだ。
その人はどうやってペットの死を乗り越えたのだろう。
仕方ないから、自分でハムスターの死後について考えるしかないのだが、なんとなく、私の心に住んでくれているのではないか、と思うことにした。
透明なガラスケージの扉の前で、こっちをじっと見ている。
私のたった一人の友だち。
ありがとう、ごめんね、どこにも行かないで、好きなところにどこへでもお行き、なんでも好きなもの食べよう、いつまでも一緒にいよう。死なないで。
どこへも行かないで。
愛してるよ、ハム太郎。一生忘れない。