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勝手にシラバス「がん哲学外来〜言葉の処方箋〜」放送大学面接授業を履修しようかな?と思っている人へ

実際に履修しましたので実際の授業の様子を紹介します

授業を受けた感想

は別記事です。

よろしければそちらもご覧ください。

教室のようす


定員は40名。
放送大学埼玉学習センターでの開講でした。

男女比は4:6で女性の方がやや多い感じ。
年齢層は40〜50代くらいの方が多かったです。

現役の看護師さんや、緩和ケア、心理カウンセラーの現場で働いておられる方など医療従事者の方が受講されているようでした。
次いで医療従事者ではないけれどもご自身や身近な方にがん経験がある、といった方もおられました。

募集一回目は定員割れしていましたが、
追加登録が始まってすぐに定員は埋まったようです。

先生がご高齢だからか、授業の細かい進行は先生ではなくアシスタントの女性(60代くらい)が詳しい説明、レポートの書き方の諸注意・回収、資料の配布などの実務をしておられました。

毎回あることなのか不明ですし、
あまり広めていいことなのかわかりませんが、
1日目の終了後に近くのサイゼリヤで先生を囲む懇親会があり、任意で出席できることのことでした。
私は現状がんで悩んでいるわけではないので、
より深く先生とお話されたい方の機会を奪うことになってはいけないな……と思い参加しませんでしたが、
事前にこのことを知っていたらもう少し悩めたのにな、という気もしたので書きました。
当然、懇親会の参加は成績には影響しない、とのことでしたが、
2日目の朝にきいた話によると半数以上の方が参加されたようでした。

先生があらゆるところで公演をされていることもあり、
先生とすでにお知り合い、みたいな方も何人かいらっしゃるようでした。

樋野興夫先生


順天堂大学名誉教授、病理医の先生です。

森本レオとかSBIの北尾吉孝社長に風貌や話し方が似ている気がします。

先生は学生時代、人と話すのが苦手だったから臨床医ではなく病理医を志したみたいなことをおっしゃっており、
また理系大学の教授らしい雰囲気ですので
(滑舌が明瞭でない、発声が弱い、物事を正確に伝えようとするため断定を避けるので曖昧に聞こえる、膨大な知識を持つせいで一般人が知らない専門的な用語など解説をしないまま進める)、
生徒の側がこちらから話の要点を取りに行くぞ!という能動的な姿勢でいないと、先生の話を聞き取れないかもしれません。

たまに、煽られてるのかな?みたいな謎の雰囲気が漂いますが、怒ったりしているわけではないので安心して大丈夫だと思います。
最初は私も、もしかして怖い先生なのかな……?とか思ったのですが、
最終的にたぶんめちゃくちゃ優しい先生なんだろうなと思いました。

先生の思想の背景


先生はクリスチャンであり、
そのような価値観からこうした活動を精力的にされていると感じました。

とはいえ先生は
この授業の生徒はもちろん、
相談に来るがん患者に対しても、
特定の宗教を薦めることがないよう
気を遣っておられるようでした。
そのためご自身からはこの話はされず、生徒から質問された際にそのように答えておられました。

私の他のnoteを読まれた方ならご存知かと思いますが私自身にもクリスチャンの背景があるので、
先生の言動の背景にキリスト教の善悪の感覚があるということに私は安心感を覚えましたが、
(先生が聖書を重んじているのであれば、暴力をふるったり、物を盗んだり、威張ったり、セクハラしたりする可能性は低いと思うため(もちろん自称クリスチャンにもクズはいますが))
一方で生徒の中には先生が個人的にクリスチャンの信条をお持ちだということに若干引いている人もいました。

さまざまな思想・宗教の背景をお持ちの方がおられますから、
キリスト教的な思想がベースにある者から、生き死にの話をされるのに抵抗を感じる方は受講を見合わせた方がいいかもしれません。

評価方法


出席と8限目の終盤30分で記入するのレポートで評価されるとのことです。
出席は両日1回づつ(2日間で2回)とられました。

毎回課題が異なるのか、同じなのかは不明です。

「哲学」の意味


「哲学」というと、デカルト、プラトン、アリストテレスなどの哲学者が思い浮かびますが、
当授業はそのような学者の名前は一切出てきません。

学問としての「哲学」から、
現代人の「がん」を論じようという試みではなく、
がんをきっかけに、
トコトン、人生や生き死にについて考えよう、という取り組みを形容する言葉として「哲学」というワードが用いられています。

「哲学」を深めたい、と思っていると期待外れと感じるかもしれません。

授業の内容・進行


なんと授業内容は生徒が教科書を朗読し、それについて先生が「なにか質問ある?」ときくだけです。
(他にもあります。後述します。)

つまり新たな知識を得たいのであれば家で教科書を読めばよく、
教科書の扱う箇所も「先生の好きな偉人」みたいな箇所で「がん」があまり出てきません。

ではこの授業は退屈で無価値な授業なのでしょうか?
そうではないのです。
ではなぜ価値を感じられるのか?を解説します。

この授業の担任の先生である樋野興夫先生が創始された「がん哲学外来」および「がん哲学カフェ」は
どちらも人間同士が対話をすることで、
がん患者の心の重荷を軽くしようという取り組みです。

それぞれ、
「がん哲学外来」は「樋野先生とがん患者」が、
「がん哲学カフェ」では「がん患者同士」が、
語り合い、安心し、その上で参加者が今の自分に必要な気付きを得ることを目標としています。
当授業はそうした「外来」と「カフェ」をミックスさせたスタイルが想定されていると感じました。

つまり、
生徒は悩みや考えをひたすら先生にぶつける→
先生はそれを聞いて、考えたことを返す→
生徒全員がそれを聞いて、新たな疑問が浮かんだり、個人的な気づきを得る、これを繰り返す、
という進行が想定されているのではないでしょうか。

つまりこの教室での生徒の「権利」は「先生の話を聞いてノートをとったりメモをとったりする権利」ではなく「自分の人生のギモンを先生に思いっきりぶつけることが許される権利」という感じなのです。
それも「なぜ私はガンにならなければいけなかったのですか?」みたいな超内面的な質問を、です。

今思うと、先生は全員と(精神的な)相撲を取る体勢をとっていたように思います。

しかし私を含めた生徒の側が「教室」といえば先生の提供する情報を板書する、みたいなイメージしか持ってなくて、
生徒の側から先生に全力で疑問をぶつけてよくて、しかも超個人的な疑問をぶつけてもいいんだ、ということに気付くのに時間がかかり、
生徒によっては最後まで「なんじゃコリャ?」みたいな顔をしちゃってる人もいたと思います。

先生にしても、そういう超個人的な質問が最初から出てくるとは思っておらず、
対話の呼び水として、
ご自身にとっての恩師の話や、
ご自身ががん哲学を思いついたいきさつなどを教科書を使って(事前に整理されているから)共有しておられただけなのではないかと思います。

しかし「なんでもきいてよい」とはいえ、先生も知らないこと、答えられないことはあります。それもたくさん。

では、相手が答えられない質問、それも大学教授である先生でさえうまく答えられないような質問を口にすることに意味はあるのでしょうか?
なんというか、あるのです。意味が。価値が。

先生が正しい答えをバチッと出してくれるということよりも、
生徒であるあなたが今まで口にしたことがないような自分の内面の考えを口に出すこと、
先生がそれをきちんときいた上でウ〜ンと悩んで答えを出してくれること、
それをきいて、納得がいったり、いかなかったり、心に反応があること、
そうした過程を経ると、質問した人の心が軽くなるということなのです。
そういう「がん哲学外来」のメソッドの持ち込まれた授業だと感じました。

早めに先生に対して心を開くことができ、クラスの大勢の前で自分の悩みを開示する気になれると、有意義に過ごせる可能性は高くなると思います。

映画の視聴


また、授業中には「がん哲学外来」および「がん哲学カフェ」の実際の活動の様子を撮影した映画を視聴します。

この映画は90分ある上に「話す人間」のみのカットで構成されている非常〜に地味な映画であり(青汁のコマーシャルの方がまだ凝ってる)、
なおかつ「物語」もなく、起承転結もなく、映画的なカタルシスもない、
がんになった人の話をただきくだけの静かな内容の映画です。
しかし普段かなり映画を観ている私でもかなり心身にズシッとした衝撃を受ける作品でした。

十年以上前に「余命1ヶ月の花嫁」というコンテンツが大流行りしたことを覚えておられる方も多いと思いますが、
あのコンテンツについては手放しで称賛できるものではなく、
人の病気をエンタメとして消費していいのか、
「もうすぐ死ぬヒロイン」を出して簡単に泣ける演出とするのはチープではないのか、
関係者のスキャンダル報道など
水を差す要素もかなりありました。
それでも「間近に迫った人生の終わりを感じながら生きる」人間の姿に、命ある人間として思うところがあったからこそ、あそこまでの大ヒットになったのではないでしょうか。

今作はあのような「余命1ヶ月の花嫁」のような話がずっと続きます。

恐ろしい殺人鬼から追いかけられ手に汗握る映画的なスリルのシーンはありませんが、
映画全体を通して「がん」と「死」いう不穏な気配がずっとただよっており、かなりのストレスを感じると言えば感じます。 
何らかのトラウマを抱えた人はやや注意が必要かもしれません。
(途中でも退室してもいいと思います)

登場される方が、ご自身の気持ちを言葉にするのが上手く、当事者が「今どういう気持ちなのか」が疑問の余地なく伝わるので、つられて思わず号泣してしまうシーンも何度もありました。

今作はがん患者の苦悩や悲しみも伝えていますが、 
本当の目的は、
患者ががんの苦悩から目をそらせるようになる瞬間を映像として残すことで、
がん患者にとって病気以上に重要なことに気づくためのヒントを提供することなのだと感じました。

なので、私は今のところがんと関わりのない生活を送っていますが、私や身近な人ががんに悩むようになったら、この映像を見せたいと感じました。

経験者の登壇


現在実際にがんで闘病されているがん哲学カフェ利用者の方が登壇されます。

プライバシーの問題もありますので、
あまり詳細は話せませんが、
私とそう年も変わらない、明るくて快活な女性が、
余命いくばくもなくて〜と、ご自身の病状や闘病生活の実際を語ってくれるのが私には衝撃でした。
今日初めてお会いした方なのですが、
半年後はもしかしたらもうお会いできないのかも、
ということが無性に寂しく、悲しく感じました。

このような進行を通して、
「がん」が身近な人も、そうでない人も、
クラス全員で「人生とは何か」「どう生きるか」を大真面目に考える授業内容となっています。

まとめ


私は現在がんにかかっているわけでも、家族ががんで苦しんでいるわけでもなく、
ただ、ぼんやり「死ぬの怖い」とか「がんになったら怖い」みたいなのがあって、
そういう恐怖に対して別の視点が持てるようになるかな?
と思って当講座を履修してみることにしました。

結果として、
がんになったときに頼れるサービスにはどんなものがあるかといった実務的な情報を経験者から得られたり、 
樋野先生をはじめ医療従事者の方の発言から、
困っている人の助けになろうとする人の姿を見て、
私は自分のことだけ考えて生きているんだなと思ったり、自分の人生について思うところがあったりしました。
とはいえまだ「私はこう生きよう!」みたいなのが見つかったというわけでもないのですが。

でも少なくとも人生について視野が広がった感じはするというか、履修してよかったなと思いました。

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