罰は誰が作っているのか?
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今回のテーマは「罰は誰が作っているのか?」ついてお伝えさせて頂きます。
人は人を裁くことはできません。
裁判官という職業についている方が判決という形でその人に与えられる制限といえば「肉体に対してのみ」だからです。
心までは制限できません。
つまり、裁判官ですら肉体に対してのみの制限しか与えられない。
それなのに自分たち日常を過ごす人は他人を裁くことなど絶対できないのです。
では、罰とは誰が作り出しているのでしょうか?
神仏なのでしょうか?
答えは「いいえ」です。
神仏は生き物に罰を与えません。
「いやいや!罰与えまくってるじゃん!」と思われる方もいるでしょう。
神仏、つまり自然界はその人を応援して下さるだけです。
特に人に対する慈悲は特別なのです。
SNSを見ていてその人が悪口を書き込んだとします。
するとその光景をみた守護霊が神仏に伝え、神仏はこう思うそうです。
「この人はその言葉が好きなのであるか。では来年はその言葉を100倍体験できるようにしてあげよう。」とニコニコしながら言うそうです。
幸せに過ごすための第二の習慣で述べた「投げたものが返ってくる」とはこういった原理です。
罰とは自らが作り出したものです。
その人を呪いたい。
いや殺さねばならないと思えばそれが罰という心を生み出した瞬間なのです。
くれぐれも大切なことなので何度もお伝えしますが、人が人を裁くことなどできません。
そして、仮に人が人を裁くとすればそれは裁判官にしかできない。
そして、出来たとしても肉体に裁きを与えられたとしても心に裁きは与えられないのです。
これは重々心に留めておくほうが良いです。
恨めば恨まれる。
憎めば憎まれる。
感謝すれば感謝される。
手を差し伸べれば差し伸べられる。
人を裁けば裁かれます。
決して「私はあの人に裁きを与えられる存在である」などという驕り高ぶった考えは捨てましょう。
神仏でも裁くことができないのに人が裁くことができると言う考えそのものが傲慢なのです。
それよりも今を楽しく生きる。
やりたいことを素直に行う。
そうすればそんな考えは遥か彼方へ消えていくでしょう。
カネコが伝える中核はなんら変わりはありません。
今を楽しむ。
挑戦・行動・今できることは何か?
幸せに過ごす七つの習慣の中の第一の習慣「五戒を言わない」を出来るだけ自身に課して楽しんで生きましょう。
ということで!
本日のテーマは「罰は誰が作っているのか?」についてお伝えさせて頂きました!
オンラインサロン「かねちはサロン」では皆さんで楽しめる事!挑戦する事!などなどカネコチハルに集う方々と毎日楽しんでおります♪
参加は誰でもできるわけではなく参加方法についてはかねちはサロン集会所からの移動のみとなります!
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6月1日からは火曜日から日曜日までは集会所もしくはサロンに参加されているメンバーしかご視聴頂けなくなります。
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もちろん参加費などはかかりませんのでご安心くださいませ。
では!
また次回の記事でお会い致しましょう!