道具と身体の操作から得るもの①
と題してみたが、もう少し広い領域の話題を含むことになる気はする。
音楽家じみたことをやり続けていると、どんな曲を聴いて「そう」なったんですか?というような意味のことを訊かれることが往々にある。ひとつも悪い気はしないし、話題を振ってもらえてありがたい気持ちが大部分を占めることは前提として、ただそれに対して期待されるような答えが返せないことを申し訳なく思う――というのはまぁ自制であって、実際には「曲ではないのですが」という脱線宣言を用いてならば続けたいあれこれはあるのだ。
たとえば私は自分自身の音楽に宿る焦燥のようなものは徒競走の影響を受けていると思っているし、その際の音の配置にはシューティングゲームの弾幕が関係すると思っている。来る音の要素の並びは敵の配置、あるいは演技の構成。動きとその操作の関係をどこまで提示するかの感覚は大道芸の影響、そして実際の身体の動かし方は大道芸と、合気道の影響があるだろう。どの程度のエネルギーを与えると物が動き出すのか、その感覚には自転車もそうとう影響している。幾何学図形になりたい。あと太陽光がとても好きだ。
好きな作家はモーリスラヴェル、好きなバンドはZAZEN BOYSと言い続けている。だが、音楽に宿るものを語る際、その原点を音楽だけに絞って話すことは、少なくとも私にはどうしても難しい。それ以外のあらゆるものが、自分を作ったと思う。音楽は好きだが、音楽をするにあたって用いられているあれこれの中で、厳密に音楽のみを原典としている要素など、微々たるものではないかとすら思う。
さて、それではそれぞれのものにどういった要素、どういった形で音楽と関係する要素が存在するのかということを、私なりの感覚で一度書き記してみたい。当然のことながら、これは全体が持つ可能性のうち、ほんとうにごくわずかなものだけを抜き出したものとなるはずである。
例によって網羅的に書こうとしたら量が増えたので、分割して少しずつ投稿していきたい……といつも言ってるなこいつは。
<ボール(お手玉)>
ジャグリングの代表格である。複数個の球を投げて、取る。基準は厳密ではなく、なんとなく上手くいっていればOKくらいの曖昧な領域がけっこうある。技によっては意外なほど「実は投げてない時間」が長い。
よく言うのは、リズム感が重要、ということ。ただこれはだいぶ大雑把な表現で、実際にはもう少し細分化して考えることができると思う。
たとえば人に教えるとき、手を叩いて「たん、たん、たん、たん」と、このリズムで投げましょうというふうに誘導することはあるかもしれない。ただ、この「たん」とやらは、実際には何のタイミングを示しているものなのだろう?
このタイミングで投げましょう、というならそれは文字通り、手に握っているボールを腕と手首の力で上向きの慣性を付けながら握りを放す瞬間のことを指しているかもしれない。ただ、よくよく眺めるとわかる、実際にジャグリングをしていて「たん」という音がするのは、そのちょっと後、落ちてきたボールを掴んだ瞬間の方である。
つまりこの時点で、ここには二つのタイミングが存在することがわかる。投げるときと、取るとき。それはタイミングとして近しいことが多いけれど、厳密には別のものである。そして技の種類によってはこのタイミングが大きく異なるケースがある。「投げると同時に取る」という動作はいつでも必要なわけではなく、時として投げっぱなしになる瞬間も存在するし、手順として「投げた後には取らなくちゃいけない」技であっても、そのタイミングは任意である程度ずらすことができるのだ。
ある程度?そう、ある程度である。ある程度以上はずらすことができない、それは手順の問題である。手順として「取る前には投げなくてはならない」のであれば、投げるまでの猶予時間を決めるのは落下速度である。投げたボールが、手に落ちてくるまで。この時間の中で、次のボールを投げるタイミングは前後にずらすことができる。しかし、取るべきボールが落ちてくるまでには、投げなければならない。つまり「次の一手」の猶予時間が、「その一個手前のボールを投げたタイミングと高さ」によって決まる。その繰り返しでずっと続く。一球ならば無理もできるが、無理した一球の後ではそのさらに後の球の猶予時間にしわ寄せが行く。だからリズム感が大事になるというのは、特定の一手にしわよせが行かないように、猶予時間の尺を安定させようということだ。
ここで得られる感覚に「どの程度の力でボールを投げれば、次への猶予時間がちょうどよくなるのか」というものがある。力の強さと時間の長さの関係だ。どのくらいの強さで押したら、それが折り返して戻るまでにどのくらいの時間を要する運動になるか。これが波の揺らぎの大きさを決める。
おそらく私のリズムの持つ傾向はこれに由来する部分がある。たとえばある一つの演奏をMIDI録音したとして、編集段階でベロシティを変更すると、その部分のテンポも変えたくなってしまうことが往々にある。それは「強く出せばその分大きく揺らぐはずだ」という感覚があるからだと思う。私にとって楽曲の速度とは、物理と切り離せない領域があるのだろう。
そしてまた、ボールは投げようと思って即座に投げられるわけではない。かならず手前にストロークが存在するのだ。投げるタイミングと取るタイミング、それだけでも既に二点が存在したのに、実際にはそれらを繋ぐ線もが存在する。ストロークを深く取ればその分楽にボールは投げられる、ただそればかりが正解でもない。時にはごくごく浅いストロークで投げ返さなければならないこともある、そもそもの猶予時間が短かったり、あるいは表現意図してそうしたりするケースだ。そのとき、着弾したボールが即座に跳ね返るような、クイックな反射を連想する。逆に深くストロークを稼いで投げ返すときは、手前の運動を受けてそれを自然に投げ返すことで、手でボールを持っている時間も含めてひとつの大きな波のような印象を受ける。
こういった操作が、やはり演奏にも影響する。音の並びをそれぞれ独立したものでなく関係を持ったものだと捉えるなら、ある瞬間叩くスネアの音は、その手前に存在するバスドラのボールを波のように投げ返しているものなのかもしれない。あるいは反射するように続くハイハットの細かい刻みの上に乗っているもう一個のボールなのかもしれない。ほとんど手に握らず、アツアツのパンを空中に放り投げながらどうにか保持しているような、そんな運動かもしれない。投げたものを取り、また投げる。その手順とそれをつなぐ線の中に見出し得る運動の種類の膨大さと、そこに宿る意志のようなもの。それとリズムの構築は、近いものがあるように思う。
またたとえば、音程の低さ。これはボールの大きさや重さと捉えることもできるかもしれない。低い音を投げるときには、大きな重いものを投げるときの感覚が必要になる。それは単なるパワーではなく、ストロークにかかる時間が伸びることであるし、波を折り返す際にもGが強くかかることを意識させられる。また、打点の柔らかさや、ねちっこさ。これもまた、投げるものの材質と寄せて考えることができる。ボール。みかん。卵。枕。風船。スカーフ。鉛筆。スライム。すべて違う、それぞれに異なる速度と抵抗の分布を持っている。これらが点に対する線の形状を決定する。
そしてまた、ストロークの長さは射出の角度に影響する。これは人間の腕が基本的に回転運動をするからだが、物から手を離した瞬間に物が真上に飛んでいくタイミングというのはごくわずかしかなく、そのタイミングを外すと物は前方や後方に飛んでいってしまう。だから、実のところストロークもベストなタイミングで投げられるように逆算して調整している。落下してくるものの着弾タイミングと、次に投げるもののストロークのタイミングをそれぞれ逆算して、それらがちょうどよく交錯するように線を描き続けるのだ。複数の逆算がお互いに交錯するタイミングが成り立つように動かし続ける。
ここで手に握っているものが何なのかで、ストロークの角度も調整しなければならない。ある程度形状を保った球体なら、それほど深く考えなくてもOKだ。ただここで投げるのが鉛筆である場合、ストロークの回転は射出された後の鉛筆の回転速度に影響を及ぼしてしまうため、必要な回転数に合うようなストロークの距離と角度を考える。無回転で投げたい場合、感覚的には手首を逆回転させるようなイメージで投げる。またここで手に持っているのがスライムだとさらに厄介で、ここでストロークを素早く回転させると手に持っている間にスライムが飛び散ってなくなってしまうし、射出した直後にあちこちに飛び散ってしまう。この場合、ストロークはできるかぎりゆっくり、かつ直線的に行う必要がある。逆に言えば、もう飛び散っても問題ないという局面なら、敢えてぐちゃぐちゃのストロークで打点を目指してみるのもひとつの手だ。
このあたりの感覚も総括すると、音量の大きさ……もう少し広く捉えるならダイナミックさみたいなものは、単なる音量単体で存在できるものではないという点がある。そこにはそれを導くだけのエネルギーが必要で、そのエネルギーを与える側の物理構造によってはその動きは単なる直線を描かないことがあるし、また受け取る側の材質や状態によってエネルギーが可視化(可聴化)されるまでに様々な歪みやラグが発生したりする。そういったもの無しの「単なる音量」というのももちろん考えうるが、少なくとも筆者は基本的には周辺に付随する物理までを含んで「ダイナミックさ」を捉えている節があって、それが演奏傾向にも表れていると思う。
…と言いつつ、実は「独立した音量のみの操作」も狙ってやる分には好きではあって、これは「普通そうならないだろう」という感覚がある故の、わざとやってる感が好きなのかもしれない。違和感と言い換えてもいいのかも(お察しの通り筆者は違和感が大好きな人間だ)。
その際にも、自然に起こってしまう周辺の諸々を逆ベクトルの動きで打ち消すパターン(鉛筆を投げる例で言うところの、無回転で投げたい場合むしろ少し逆回転させるようなイメージで投げるとうまくいくやつ)と、そもそもの物理状況を変更しているパターン(鉛筆の例で言うなら…人間が投げているのではなくリボルバーから打ち出しているようなかんじ?)とが考えられると思う。
実際に行っているのは物理シミュレーションではなく演奏なのであるから、イメージさえ追いつくのであれば無重力空間を作り出してもいいわけだし、逆にとんでもないGを設定してほとんど身動き取れなくしてもよい、その状態で摩擦だけゼロにしてなぜか水平方向にだけはスムーズに動くようにしてもよいのだ。
そういった世界で、なぜかサビに入る前のBメロの後半だけ、やけに動きが重くなる…?それは数値が変わったということでもいいし、ここに来てようやく「誰かが後ろから声をかけたから」とかいう物語でもいい。そしてサビに入った瞬間、今まで世界を包んでいた極大なGが開放されて自由になり、あまりの自由さにどこか、不安になる。「誰か」は、一体ぼくに何を言ったのだろう?
物事が成り立つあらゆる状況設定と、その中での因果の構築をしていいと思う。ただ、そういった背景が、どうしてもいつも、存在している。筆者は演奏行為をここから切り離すことが難しい……厳密にはそれも可能なのだが、その場合もやはり「切り離した」という文脈をもってそれを眺めてしまう。そういったものも好きだ、だが、逃れられはしない。
前提として常に、その要素が存在しているということだ。