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五木ひろしとおばあちゃん。

おばあちゃんは、目が悪かった。片目は白濁して失明しており、もう片方も緑内障で、本人いわく「ほぼ見えない」とのことだった。それでも、私たち家族のご飯を作り、家事はこなしてくれていた。
今思えば、それはそれは大変なことだったのではないだろう。

そんなおばあちゃんの楽しみはテレビだった。画面に近づいて見ていた、かな。そして、いつの間にか「五木ひろし」のファンになっていた。「どの曲がいい!」とか、「何時からこの番組に出るから、あとはよろしくね」とか、「レコードがほしい」「コンサートに行きたい」などの今でいう”推し活”みたいなことはなく、ひたすら歌番組を見ていた。ただ、当時は今より歌番組が多く、五木ひろしもヒット曲を次々飛ばしていたので、ほぼ毎日あった歌番組を見ていればよかった。
私もいつの間にか郷ひろみが好きになっていたので、二人にとって歌番組は大切な時間だった。

それでも、いつからか「五木ひろしのコンサート行きたいなあ」と、おばあちゃんはテレビを見ながらつぶやくようになっていた。
まだ小学生だった私には、それを実現してあげたいという気持ちもあまり強くなく、それどこかアイドルに熱を上げることを良く思っていなかった母の小言をスルーして、郷ひろみのコンサートに行くことが目の前の大きな問題だった。まさか中学生になってすぐ、そんなに早くにおばあちゃんが亡くなってしまうなんて、想像もしていなかったし。

もう少し、せめて私が高校生になるくらいまで生きていてくれたら、おばあちゃん孝行にも考えを巡らせ、五木ひろしのコンサートのチケットを取る方法もわかって、さらに「一緒にコンサートに行く」という行動に移せていたのではないかと思う。

せめて、せめて、あと少し長生きしてくれていたら。そう思うことは他にもたくさんある。
着やすくておばあちゃんに似合う洋服を見立ててあげたかった。美味しい料理を食べに連れて行ってあげたかった。

社会に出て、特に広告業界の仕事をするようになってからの私の帰宅時間は、驚異的に遅くなった。特に花金( )などは午前様は当たり前。学生の時から帰宅時間さえ守っていれば、私の行動に関してあまり関心を示さなかった両親も、「こんなに遅くまで女の子を働かせる会社はない!」「あんたを心配して腎盂炎になった!もう知らん!」と激怒の連続。
それでも、両親の怒りと目の前の仕事や飲み会の面白さを天秤にかけ、後者を選び続けた。
後に、もしあの頃おばあちゃんが生きていたら・・・という話になった。
「そりゃあ、あんたが帰ってくるまで仏壇の前で手を合わせていたで。」
もちろん、寝ないで待っていただろう。そうなれば、さすがに早く帰らなければと思っただろうし、「先に寝てよ!」とおばあちゃんにきつい言葉を投げかけていたかもしれない。それでも、もう少しおとなになった私とおしゃべりしてほしかった。

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